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2013年10月

2013年10月27日 (日)

弱さは思いやりに。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(へブル5:2)

小さい時に親から離され育った人が、ある日イエスの愛を知り、神を信じた。
育つ過程で、危険な道はなるべく避け、自分で自分を守り、危険を感じ取ると逃げることが身についていた。
主を信じ、語られた道を歩んでいても、行き詰まると、間違いであったかと思えてきて、逃げることがしばしであった。
そうしているうちに、主の愛が見えなくなってしまった。
ある日、主に向かって静まっていると、ふと主の臨在が伝わってきて、そのまま丸ごと委ねて歩めばよいということが理解でき、計り知れない主の愛に立ち返ったのであった。
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主がいつも私の手を取ってくださっていた。私の弱さがそのことを信じきれずに、完全なみこころから外れる道を選んでしまっていた。
私が救われる以前から持っていた問題、自分ではどうしようもなく、逃げ出すしか逃れる道はなかった問題、私の基本的な人格を形成した中での弱さを、主はご存知であった。
主は限界まで耐えてもどうしようもなくなったとき、逃げるという私が持っていた防御規制を知っておられ、長年かけて取り扱って下さった。ハレルヤ!
その防御規制は私が親との関わりの中で、身につけていたもの。
その中で受けた不必要な部分を手放せるように、長年かけて、私を扱い、作り変えて下さった。
主のことばでみこころを聞いた時に、妨げとなっていたものを無理に取るのではなく、手放せるまで、私を扱い、無理にではなく、自然に手放せるまで導いて下さった。
なんという愛だろうか。
主がともにいてくださるから、主に委ね、明日も安らかでいられる!

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2013年10月23日 (水)

何とかして幾人でも

「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント 1:22)

パウロの救霊は、自分を捨てて、すべての人に応対できるよう、へりくだりの中でなされた。
しかし、福音を語る姿勢は、きっぱりとしたもので、混ぜ物はなく明確に伝えたのである。
それは、神であられるのに、人の姿をとって、私たち罪人のところに来て下さったキリストに通じるものであり、神の心から出たものであった。
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愛の現れ方は個人個人、異なっている。
優しく柔和に接することは詐欺師にもできるものだ。
しかし、主の愛はそのようなものではなく、不動のものである。
ダメなことはダメとはっきりいうことだ。
コントロールすることなく相手の意思を尊重し、待つことができるものだ。
神の名を利用して、人を自分につけようと根回しすれば、その人をわたしに誘導することはたやすいことである。
その救われた人たちが本当に神であるわたしを必要としているならば、わたしがその人を導く。
導くのは、神であるわたしがする。心配はいらない。
人が自我で救霊の働きをしていたとしても、それを用いてもわたしは救いに導きたい。
だから、救霊の働きをしている者が、たとえ自我の矯正を拒んでいたとしてもそのままにしているのだ。
そうしても、何とかして幾人かでも救いたいのだ。
矯正を拒んでいた者がわたしにとどまり続けるなら、いずれ、必ず自我を手放す時が来る。
あなたがたは、そのことにつまずくのではなく、救われた人たちが、つまずきを覚えた時に、正しく導けるよう適度な正しい距離を保ちつつ関わっていなさい。

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2013年10月21日 (月)

主のみこころを知る

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイの福音書 6:7)

ある時、祈りについて、主が語られた。
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人が祈る時、あまりにも多くのことばを並べたて、それで満足してしまう。
わたしの言うことばを聞こうとしない。
自分の要求や自分の思いを告げて、わたしの語ろうとすることばを聞こうとしない。
主が交わりたいと願っていても、わたしの方を向かない。わたしはそれが悲しい。
心を閉ざさず、また、わたしがどんなにあなたに教えたいと願っているかを知って欲しい。

わたしが語ることばが聞こえないのは、雑念を捨てず、自分の考えを捨てないからです。
そのことがわかるだけでも祈りが違ってきます。
すべてを支配しているのは、主です。
祈る事柄も、主が導かれます。

否定的な思いは捨てなさい。今、捨てるのです。
それをしないと、あなたを用いたくとも用いることができません。

わたしがあなたをどんなに愛しているか、あなたは知らないでしょう。
あなたが想像できないほどに、あなたを愛しているのです。
信じて下さい。これを信じることができず、疑いに負けてしまわないようにして下さい。
人々がどのように誤解しても、あなたとともにわたしがいることを忘れないで下さい。
遠慮は何も生み出しません。悔しさと惨めな心が残ります。
したいことは、伝えなさい。したくないことも同じです。
ハイはハイ、いいえはいいえです。それ以上のことは悪いことです。
疑問を聞くのも、時によっては、必要なことです。

そうやって、互いに補い合って、キリストの律法を全うしなさい。
人は不完全です。人の助けも、交わりも必要です。
それがキリストの体の健康な状態です。

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2013年10月20日 (日)

思い煩いは主に!

「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(詩篇 94:19)

あるリーダーが、ある祈りの集会を導くことになった。
場所を用意し人々が祈るために集まった。
黙想する時間があるのだが、開いてみると、その場所は、大きな道路に面し、うるさ
いことを知った。
それでもと思って始めてみると、拡声器の声まで聞こえてきた。
失敗に終わるのではと思い、主に向かった。その時、主は語られた。
「あなたはなにを思い煩っているのか?
 どこにいてもどんな場所でもわたしはいる。
 心配せずに委ねなさい。この集まりの主はわたしである。
 否定的な思いを打ち砕く!!
 否定的なことばを語らないようにしなさい。
 この集まりを導いているのは、わたしである。あなたではない。
 わたしに任せて祈りなさい。人の評価が大事なのではない。
 大事なのは、人々がわたしを知ることである。
 わたしは欠けている人間を欠けたままで用いることができる主である。
 持っている問題が大きいほど、また、求めが強いほど、人は私を求める。
 その時、わたしは応えよう。」
このことばに安心感を得、その会は主の喜びが満ちていった。
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完全ではない欠けた私たちであるが、主はそのような私たちを用いて下さる。
自分の思いを捨てて、主を見あげた時に、主は働かれる。
その時、主の栄光が満ちる!!

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2013年10月19日 (土)

自我を捨てよう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ 43:4)

主は、私たちの外側や能力や働きがどうであったとしても、その存在を宝物のように愛して下さっている。
私たちは、主に出会い、その愛の広さ、長さ、高さ、深さを知って、初めて自分で握っていたいろいろなものを手放せる。
宗教的に外面をいろいろ繕ったとしても、本質の変革は、主の愛に触れないと、起きない。
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私たちはセルフイメージが低いことで、どれだけのみこころを逃しているのだろ
うか。間違った自己評価をしていると、いつかはがれるが、主が与えて下さる評
価は、不動の評価である。
神がいのちを差し出すほどに、愛してくださっているのに、その愛を自分のフィ
ルターを通し、差し引いて過小評価してはいないか。
そうやって自分を握りしめてはいないか。それは強い自我である。
宗教的に長年、どれだけ祈り、頑張ったとしても、それだけでは、脱しきれない
壁がある。
主の愛に出会うと、その壁が一瞬で破壊し、たとえ瀕死の状態であったとしても
拾い上げて、有用な器になるよう整えて下さる。
豊かな実を結ぶようにという主の思いが、そこにあるからだ。
セルフイメージを捨て、主のイメージを身につけよう。
自分で握っているイメージを捨てて従っていこう。
その先にある世界は、なんと素晴らしいものだろうか。

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2013年10月18日 (金)

教会の境界線?

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(使徒 17:26)

ある教会指導者が、教会員が他の教会に時々行き交わるのを不快に思っていた。
このことを祈り、自分の気持ちをありのままに主に告げた。
その時、冒頭に上げたみことばが目に留まった。
神は、人それぞれをその教会に置かれたのだから、他の教会に行くのは間違って
いる、そう思い、みことばを出して、その教会員を責めた。
その教会員は、その教会を去っていった。
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みことばには、愛がある。
誤った心で聞くと、誤った解釈に陥ってしまう。
そして、それが正しいと思い込んでしまう。
この後に続くみことばには、「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」とある。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられない。
教会という地域教会の枠があるのは、その中で、ひとりひとりが神を見出し、神との直結した関係を結ぶためである。
それが神の意図した教会の姿である。
牧師はそのためのお世話をする(牧する)役割が与えられている。
それが機能して初めて、教会は神の愛を流す教会となる。
キリストの愛によって、互いに愛し合い、神の栄光を現していこう。

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2013年10月17日 (木)

風は思いのままに吹く

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ 3:8)

心砕かれ、100%捧げる決意をする者をわたしは用いる。
わたしの吹かせる風に身を任せて、自由に従う者をわたしは求めている。
あなたは何かを持っていると思ってはならない。
あなたが持っているものでわたしが与えなかったものはないからだ。
あなたがもっているものをわたしに差し出しなさい。
そうすれば、わたしはいく倍にも祝福し、あなたを満たそう。
風の流れをとどめたり、流れを変えようとしたりしないように注意しなさい。
汚れた水が少しでも残っているならば、いくら聖い水を注いでも、ピュアな水に
はならない。
古い考えや自我を捨て去りなさい。
そしてわたしがあなたを作り変えようとするがままに、委ねなさい。
大いなる祝福があなたを待ち受けている。
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聖霊さまは、聞き従ってくるものを、喜んで満たして下さる。
聖霊さまに触れられて、私達にも喜びが満ちる。
その喜びによって、神さまに従おうと思い、神さまに少しでもお返ししたいと思っ
て、捧げる心が起こる。
まず、神がある。神の愛が先にある。
主に委ねて、歩んでいこう。喜びがあふれ満ちる!

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2013年10月13日 (日)

いのちのことばを握って歩もう。

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(ピリピ2:16)

主に従っていくと、試練が起こり、いろいろ疑いがやってくることがある。
試練につぐ試練に疲れたある信仰者が、疲れて主のもとで、静かに休んでいた。
主は、静かな御声で語ってくださった。
「子よ、揺り動かされることなくあなたに与えた役割の内にしっかり立って、歩
みなさい。あなたに語り、今まで導いて来た道が確かなものとなっていきます。
そのわたしが語ったすべてを思い起こし、しっかり握り、これからの道をしっか
りわたしに聞きなさい。人への恐れを捨て、わたしに聞き従いなさい。
あなたがわたしに従い、進んでくる時に、ポンポンと霊の実が開花していくでしょ
う。だから恐れずにしっかり成し遂げなさい。途中で投げ出さず(揺さぶりが来た時には、わたしがあなたに語っていることを思い起こし)、しっかり立ち続けなさい。そうした時に、あなたはわたしの栄光を見よう。
今のもろもろの関係は、そのまま付かず離れず、よい関係で、揺り動かされることなく、しっかりと証していきなさい。人に合わせるのではなく、わたしに焦点を当てて、交わりを保ちなさい。」
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主の声に励まされ、疑いを捨てて歩んだ時に、状況が好転し、救われる人が次々
に起こされ出したのであった。
目に見えるものは、一部である。
主を信じ、従って行こう。
その信仰を主が喜ばれ、主ご自身が栄光を現して下さる!

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2013年10月12日 (土)

真理への愛に立とう!

「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:12)

これは、惑わしの力が送られる理由に語られたことばである。
「彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったから」とも言われている。
真理への愛をよく、見極めよう。
その愛は、生ぬるい甘やかす愛ではない。
誰が見ても、不公平のない義が伴う愛である。
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主の裁きは完璧な裁きである。主を恐れ悪に加担すれば、罪が増し加わる。
わたしは何度も機会を与えたが、彼らは自分自身を肥やす意見を好み、その意見
に従って行った。
そういう人を誰が連れ戻すことができようか。彼らの関心は自分の誉れである。
神がしなかったことを、自らの力でやろうと頑張ることは、愛ではない。
「愛」は欺きに使われやすい。
神は愛である。神が愛である。あなたが愛ではないのだ。
自らが「愛」になろうとすれば、サタンが落ちて行った罪が待ち受けている。
愛と義はいつでも共存するもの。義を曲げないといけない愛は、愛ではない。
本当の謙遜は、神を神と認めることがであるが、それは、神のなさることは正し
いと認め、従うことも含まれる。
神のなさることは、一見、理解できないこともあるが、すべて、時にかなって美
しいものである。
そこには混乱がなく、主のみごとな調和がある!

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2013年10月 8日 (火)

殻を打ち破る作業

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント 10:13)

ここで、パウロは、キリストを信じているクリスチャンに向かっての注意を語っ
ている。
同じ御霊の食べ物を食べ、同じ御霊の飲み物を飲んだにもかかわらず、荒野の試
練で、つぶやき、偶像礼拝に陥って、滅ぼされた先祖の例をあげて…。
これらのことが起こったのは、私たちへの教訓のためであったとある。また、
私たちが悪をむさぼることのないためだとある。
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私達は、苦しみの試練にあうと、これぐらい許されると、自ら脱出の道を作ろう
とする。
神にあって私達が通る試練には、意味がある。
親鳥が卵から雛がかえる時、殻を破るのを手伝わないのは、雛が死ぬことがない
よう、力をつけさせるためだ。そうやって、雛は強くなっていく。
殻を破るのは、生まれてくる雛にとっては、とても苦しい作業だ。
雛にはわからない。「助けてくれればいいのに。」と。
一つ一つが殻を打ち破る作業。強め、主の似姿に変えられるための試練。
殻の中に留まっていることは、心地よいかもしれないが、滅びへの道だ。
神とともに歩むとは、肉を取り扱われ続けるということである。
私達が殻を破るのを見守っておられる主が、共におられる。

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2013年10月 3日 (木)

悔い改めと赦し

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ17:3)

悔い改めれば赦しなさい、というのは、つまずきへの記事の後、「戒めなさい」
の後に言われている
相手にいけないことをしたということを伝えることが、まず、必要である。
それが「戒めなさい。」ということである。
言っても突っぱねるとしたら、そういう相手には、今は何をしても無駄である。
赦しという神の恵みも無駄にしかねない。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりま
せん。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」
(マタイ7:6)
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赦しはキリストの教えの中心となるものだが、それも律法ではなく神の愛に基づいた教えである。
神の愛から離れないように、心を見張りなさい。
あなたを神から離そうとしているものがいる。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける
獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
(1ペテロ5:8)
神にしっかりと結びついていなさい。
そうすれば、どんな敵も呪いも、あなたを害することはない。
心が騒ぐときは、主のもとにありのまま進みでよう。
赦しはすでに神によって備えられている。
まず、自分が既に許されていることを知ろう。
主は、あなたがたの思い煩いいっさいを、引き受けてくださるお方だ!

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