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2013年6月15日 (土)

面倒がらずに主を信じて…

「こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」(エズラ6:15)

捕囚で散らされていた神の民が自国に帰り、一つとなって主の宮を再建することは、主のみこころであった。
しかし、エルサレムに帰還し、神殿再建に着手して間もなく、15年間工事は中断してしまった。
敵が妨害し、宮を建てさせまいとしたからである。
ハガイとゼカリヤというふたりの預言者の預言によって、神殿建設が再開された。
今回も、やめさせようとするかのように総督たちがやってきたが、この総督たちは公平に物事を処理した。
現王ダリヨスに手紙を送って、過去の文献の記録を調べさせたところ、クロス王が確かに命令をくだして、しかも、神殿建設のために援助していることが判明したのであった。
王の印の命令は変えることができない。
こうして現王ダリヨスによって再び援助するよう命令が下され、邪魔する者を罰する命令が下された。
長い月日は要したが、宮が完成され、神の民は再び主によって一つとされた。
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正しいことをしているなら、いかに敵が多く妨げたとしても、祈りのもと、ゆるがずに堅く立って手順をふめば、勝利はやってくる。
主による正しい行動は、誰にもくつがえされることのない完璧な証拠が用意されている。
時間がかかっても、面倒がらずに、放り出さずに説明しよう。主が後押しされる!!

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2013年6月14日 (金)

信仰の試練

「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(Ⅰペテロ 1:7)

信仰によって歩もうとする時、なんでこんなことが???と思うような出来事が降りかかることがある。
その試練は、何年にも渡って苦しむことになるかもしれない。
試練を通り過ぎて、初めてわかることがある。
神に見捨てられたかのような長い試練の時には、わからなかったことだ。

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それは本当に神だけを愛するかのテストだった。
混じり気があってもいいかのテスト。
まがい物でもいいかのテスト。
純粋に主だけを愛する者が、終わりの時代に求められる。
主だけを愛さなければ、信仰を貫けない試練の日がやがて来る。
本当に、主イエスだけを愛そうとするなら、苦しみを通ることは避けられないことだった。
そのテストにパスした者たちを、主は呼び寄せ、ご自身の有益な働きに就かせられる。
そこで、彼らは、試練の時に神が、彼らの内になさったみわざを知っていく。
すべての者が、神である主というお方を知るために、イエスという名前だけではなく、その本質を知るために、彼らは遣わされる。
彼らは、そこで、主である神をあがめる。

その時、彼らは言う。
「主よ。私はあなたに対して、不誠実でした。
長く続く苦しみから逃げようと、どれだけ自ら努力したでしょう。
主から目を離すと、罪しかない私に、主に目をかけていただく資格など何もないことを、痛感しています。
それでも、こんな私を、主は用いて下さると言って下さっているのでしょうか。
その恵みはどんなに大きい事でしょう。身に余る光栄です。
もう一度、あなたにすべてを捧げる決意をさせていただいても、いいでしょうか。
その決意を受け入れてくださるでしょうか。」

神は言われた。
「わたしは隠れ、あなたの心を見ていた。試練の中であなたの心がどのようであるかを。
苦しみを耐え抜くために、犯してしまった罪は決してよくはないが、罪を犯してしまう心、また、罪を犯した後の心をも私は見ている。
悔い改め、方向をわたしに合わせて、歩んできなさい。
わたしと一緒に歩んでいきましょう。助け主ながいつもともにいる。」

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2013年6月 1日 (土)

「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」(古川愛哲著 講談社発行)

Edoこの本を読んで江戸時キリシタンのイメージががらりと変わった。
キリスト者の罪がいかに重大なことになっていくかということも考えさせられた。
「慶長元年(1596)、土佐の浦戸にスペインのサンフェリペ号が難破、漂着した。その積荷に大量の硝石などの火薬類があり、それを浦戸を領地とする長曽我部氏が没収をした。海岸への漂着物はその土地の者が奪うという慣習法は鎌倉時代からのものである。それを知らないサンフェリペ号の船長は、在京のフランシスコ会士を通じて秀吉に積み荷の返還を懇願したので、秀吉は奉行の増田長盛を浦戸まで派遣した。増田長盛は浦戸でサンフェリペ号の航海士から事情を徴収したが、日本の慣習を泥棒呼ばわりされたのだろう。そのうち押し問答となってしまった。しかも、怒った航海士が威嚇するつもりで『スペインは世界の征服者』であると脅し文句を吐いた。すると増田長盛は尋ねた。『征服する前に宣教師を送るのであろう』『そうだ。フィリピンもヌエバ・イスパーニャ(新スペイン=メキシコ)も宣教師を送り込んでから征服した』と勢いにまかせて航海士は答えた。カトリック教会のために弁護しておくが、これは教養不足の航海士による事実無根の言葉である。…とはいえ増田長盛はいわれたままに秀吉に報告した。『スペイン人は征服者であり、まず宣教師を入れて、それから征服する』激怒した秀吉は再度『伴天連追放令』を出して、京、大坂のフランシスコ会の宣教師と信者26名を捕らえて、京の一条戻橋で片耳を削ぎ、大坂、堺を引き回したあげく、長崎に送り焚刑に処した。世にいう『26聖人殉教事件』である。このときも、フランシスコ会の修道士と信者だけを捕縛させる命令だったが、間違えてイエズス会のセミナリオ出身のパウロ三木、ディエゴ喜斎、殉教直前に念願のイエズス会入りが許された19歳のヨハネ五島など3人も捕らえられた。奉行の石田三成に対して処置方のうかがいが出たが無責任にも、『判断はまかせる』と三成は答えたので、秀吉に馴染みの深いイエズス会士まで犠牲となった。」(P81-83)

「家康は京・大坂など西国の布教にはイエズス会に朱印状を出し、関東の布教にはフランシスコ会を選んだ。…この頃、関東には多くのキリシタンが『約束の地』を求めて、西国から流れ込んだ。これをスペインでは日本でのキリスト教解禁と見たようで、慶長7年(1602)の6月からは、スペイン系のドミニコ会とアウグスチノ会の修道士15名が大挙して来日した。…スペインの無敵艦隊は英国のドレーク提督に敗れて、スペインは敗戦国となった。敗戦国は賠償金と戦費の返済に苦しみ、大国としての勢力を失う。…敗戦国となり賠償金に苦しむスペインなどのカトリック諸派の来日は。不況をめぐる軋轢を生むことになる。その背景には戦勝国英国などプロテスタント(新教)諸国の台頭もあった。ヨーロッパでのカトリック(旧教)諸国とプロテスタント(新教)諸国の対立は、日本にもキリスト教受容をめぐって影を落としたのである。布教をめぐる軋轢は徳川家康にとって歓迎すべき事態ではない。そして間もなく、宣教師たちは驚くべき情報に接することになる。同年の9月、家康はスペインのマニラ総督に書簡を送り、大略次のように宣言するのだ。『外国船が暴風雨のために寄港しても積み荷は没収しないし、積み荷の売買・取り引きも、その土地も自由であり、外国人は日本のどこにでも住める。ただし、外国の法(キリスト教)を持ち込み、広めることは固く禁止する』」(P94,95)

「家康は宣教師を一人も殺していない。豊臣家を滅ぼした大坂の夏・冬の陣にイエズス会宣教師は大坂城に籠城したが殺すことはなく追放である。これが権現様の祖法だった。」(P96,97)

「家康はイエズス会を信頼し、最後まで迷ったように思える。寺社勢力への配慮、キリシタンの真面目さへの共感と信頼、それゆえにある豊臣太閤恩顧のキリシタン大名、武士への不安。家康団のなかのキリシタンをめぐる対立。ポルトガル、スペイン、オランダ、英国との関係……。それは貿易への誘惑と布教による不安のあいだでの揺れである。そして、ここに決定的な決断をさせる事件が発生する。マカオで御朱印船主の大名、有馬晴信の家臣が現地人に殺されるという事件が起きた。家康は事情を知ろうとするものの、マカオの責任者は事件の説明に来日しない。家康は御朱印船を愚弄するものと受け取り、有馬晴信にポルトガル船の奪取を命じた。この家康の命令は慶長14年(1609)12月、有馬晴信が、長崎奉行の長谷川藤広、代官の村山等安と連携して、ポルトガル船グラッサ号を捕獲した事件へとつながった。グラッサ号の船長は抵抗して、火薬庫に火を放ち自沈した。このグラッサ号自沈事件は、2年後、家康のキリシタンへの信頼を瓦解させた。家康の側近の岡本大八と有馬晴信のあいだに詐欺と賄賂事件があったことが発覚し、有馬晴信による長崎奉行殺害計画までもが露呈したのだ。家康にとって衝撃的だったのは、岡本と有馬がともにキリシタンだったことである。篤行で知られるキリシタン武士が、賄賂や詐欺をしたあげく奉行の殺害を計画していたのだ。事ここに至って家康も決断せざるを得ない。」(P98,99)

「家康はキリシタンの命を奪うことまではしない。すべて追放であり、原主水も岩槻の親戚、粟飯原氏の下に潜伏したが、そこまで家康は探索させなかった。原主水が江戸で宣教をして焚刑に処せられたのは、三代将軍家光の時代である。」(P100)

「ところで、どのくらいのキリシタンが江戸時代にはいたのだろうか。それについて、今日まで記録で伝わるものもある。岡山藩池田家と熊本藩細川家のもので、寛永15年(1638)から4、50年を経た元禄期のものを見ると、当時、両国のキリシタンの存命者は976名である。これを全国平均としたうえで、仏教学者の圭室文雄氏が試算している。…その結果は、幕末のキリシタンは129万人という驚異的なものとなる。また『切支丹宗門の迫害と潜伏』などで知られる、宗教学者の姉崎正治博士が作成した図を見ると、どこの地域でも、江戸時代には身近にキリシタンがいたことがわかる。」(P152)

「河童が今日のように頭に皿を載せる姿になったのは江戸時代である。しかも頭のお皿に水を掛けるというのは、どことなく洗礼を連想させる。」(P156)

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