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2013年5月29日 (水)

神の栄光は何かを考えて、行動しよう。

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(エズラ 4:4)

待ち望んだ神殿再建をしている帰還民のところに、「ここに住んだ時からあなたがたの神にいけにえを捧げて、同じ神を信じてきたので、一緒に神殿を建てたい」と近づいてきた者たちがいた。
彼らは、サマリヤがアッシリアに滅ぼされた時に入植してきた外国人と残留イスラエル人との混合民族で、宗教的にもいろいろ混合していた。
このサマリヤ人たちは、到底、同じ神にいけにえを捧げてきたとはいえない状態だったため、帰還民たちは「神殿建設について、あなたがたと私たちとは、何の関係もない」と言って断ったのであった。
断られたサマリヤ人たちは、精神的な嫌がらせ、議官の買収、王に告訴状を提出…といった執拗な妨害を始めたのであった。
この嫌がらせは30年近くにわたって行われ、神殿建設は、約18年間中止させられることとなったのである。
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サマリヤ人が、心は本当に同じ神を信じていたならば、断られた後の言動は、違ったものであった。
誰が造ったとしても、神の宮が再建されることは、うれしい喜びのはずである。
サマリヤ人たちが本当に神を求めて、自分のプライドよりも、神の栄光を考え、行動していたならば、この後ずっと続いていくユダヤ人とサマリヤ人の対立も、避けられたのかもしれない。
神を信じる者として、神の栄光は何かを考えて、行動しよう。
その影響は計り知れず、神を第一とした時の祝福は大きいものであるのだから

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2013年5月21日 (火)

その涙は何の涙?

「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(エズラ 3:12)

バビロニア捕囚から70年が過ぎて、ペルシヤのクロスが王となった。
征服した民を強制的に周囲の国々の中に散らして移住させる政策をとっていたバビロニアに対し、ペルシヤは征服した民族に自由を与え忠誠を誓わせるという政策をとった。
そこで、信仰に立ったイスラエルの民は、エルサレムとユダの地に戻り、神の宮を再建することにした。
居残る者たちは、帰還する者たちを援助することで支えた。
こうして、神殿の礎が築かれ、民は主を賛美し、大声で喜んだのであった。
エルサレム神殿が破壊されてから50年後のことであった。
当時のエルサレム神殿を知る老人たちは、礎を見た時、大声で泣いたのであった。
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長年、心を占めていた神殿崩壊の痛み悲しみ。
老人たちの心はどんなに複雑だったことだろう。
暗い出来事の後、「残りの民は帰らん」という預言者のことばを信じて、信仰を守り伝えてきたのであった。
その希望の礎が据えられたのである。
以前の栄光に満ちた神殿の姿とは、比べようもないほどの礎だったが、希望の礎である。
喜びだけではなく、罪の悲しみ、感慨深さ…がせきを切って流れてきたのであった。
伝える者の使命によって、信仰は伝えられ、神殿は再建された。
主の約束は必ず実現する!! 与えられた使命に従って、歩んでいこう。

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2013年5月20日 (月)

環境にも神のみこころがある!

「彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。」(Ⅱ歴代誌 36:13)

エルサレムの滅亡が間近に迫っていた。
この頃は、アッシリアに変わってバビロニアが勢力をふるっていた。
主はバビロニアを、神の民を矯正するための道具として用いられたのである。
かたくなで反逆を重ねている神の民。
神に立ち返らせるためには、放置してはおけないところまで、悪化していた。
へりくだりと従順を学ぶために、バビロニアの王を遣わされたのだが、ユダ最後の王ゼデキヤは、これにも反逆したのであった。
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神の民であっても、同じような苦しみの中を通る。
しかし、その状況の中、主である神に信頼するならば、苦しみが苦しみでなくなっていく。
国を奪われ、バビロニアに捕囚となって連れ去られるに委ねた神の民は、神に立ち返り、信仰を継承していった。
その苦しみが、自分の弱さから出たものであったとしても、そうではなくても、神に信頼しよう。
どこにいたとしても、神がともにいてくださる。

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2013年5月19日 (日)

神の義

「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」(イザヤ 32:17,18)

神は愛である。と同時に、神は義でもある。
真実の愛は、義と共存する。
義(正しさ)の判断基準はどこにあるだろうか。
正しい完全なお方は、神だけである。
そして、そのお方は愛である。
ある教会の指導者が、ヘブル13:17「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」のみことばを用いて、自分に従うことを強要した。
従わない信徒は排除していった。
その結果、教会を離れる信徒が続出した。
何をどこで間違ったのだろうか。
その指導者は、確かにみことばを用いていたが、自分の支配欲を満たすために、みことばを利用してしまったのである。
そのことが明らかになるまでは、長い年月が流れ、その間、多くの人たちが神につまずき離れていったのであった。
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みことばを読む時、主ご自身を正しく知ろう。
知らないままに適応してしまうと、さまざまな解釈が生まれてくる。
正しいお方は神だけであるというへりくだりと、その愛ゆえに私たちに選択の自由を与えておられるということを忘れずに、しっかりと主につながっていこう。
主の義の中には、愛があふれ、平和と信頼が息づいている!!

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2013年5月18日 (土)

平安の大切さ

「しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって、彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった。そして、メギドの平地で戦うために行った。」(Ⅱ歴代誌 35:22)

ヨシヤは、神のみこころにかなった王であったが、その死は不名誉なものであった。
BC612年にアッシリア帝国の首都ニネベは、新バビロニアとメディアの連合軍によって陥落し、3年後のBC609年には、残存勢力も滅びアッシリア帝国は完全に歴史から姿を消した。
そのアッシリアを助けるため、エジプトの王ネコが、遠征してきた。
アッシリアを助けるのを好まなかったためであろうか、ヨシヤはネコを迎え撃とうと出て行った。
ネコは使者を遣わして、「これは神から出たことなので、私とともにおられる神に逆らわずに、控えているように。さもなければ、神があなたを滅ぼされる。」と警告を与えた。
しかし、ヨシヤは変装してまでも、戦うために出ていき、射手たちの手によって、死を迎えたのであった。
39歳の若さであった。その後、22年半の間に4人の王が移り変わり、預言されていたとおり、ユダはバビロニアによって滅亡を迎えることになる。
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異教徒エジプトの王ネコが語った神の警告を、ヨシヤがきかなかったとて、責められるものではないように思える。
しかし、その警告に真実があったことは驚くばかりである。
信仰者は、どんなときにも、神に聞く姿勢が必要である。
神との交わりの中、いつも平安の中を進むことが大切である。
ヨシヤは平安のないまま(変装し)、敵に向かって進んでいった。
どんな状況の中であっても、義務ではなく、神が与えて下さる愛(平安)の中を歩んでいこう。

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2013年5月17日 (金)

神の民の一致

「王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」(Ⅱ歴代誌 34:19)

マナセの孫であるヨシヤは、8歳で王となった。
ヨシヤは、主の目にかなうことを行なって、徹底的に偶像とその祭壇を打ち壊した。
主の宮を修復している時、祭司が律法の書を発見した。
今まで、開かれていなかった聖書を発見したのであった。
記されている律法のことばを聞いた時、ヨシヤは、驚愕し悔い改めを表明した。
のろいを受けて当然の偶像礼拝をしてきた神の民。
実際、記されているとおり、北イスラエルの主とは敵の手に渡されてしまっている。
主のみこころを知ったヨシヤは民にも読み聞かせ、悔い改めによる主への従順を徹底させたのである。
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聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なものである。
神を知りたいと思って、聖書を読むとき、神はみこころを語りかけられる。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭いものである。
同じみことばを読んでいても、その時々の必要に応じて、語ってくださる。
今日も、神の矯正のことばを素直に受け取り、悔い改めることができますように。
そこに神の民の一致がある。

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2013年5月16日 (木)

主は罪人を見捨てられない。

「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(Ⅱ歴代誌 33:12,13)

ヒゼキヤの息子マナセは、父の信仰に倣わず、異邦の民のならわしをまねて、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を再築し、異邦の神々を拝み、これらに仕えた。
そして、主の宮の庭にまで、偶像の祭壇を持ち込んだ。
そればかりか、自分の子供たちに火の中をくぐらせるという異教の悪習慣を実行し、卜占やまじない、呪術に霊媒、口寄せといったオカルトにまではまり込み、主の怒りを引き起こしたのである。
そのようなマナセに、主は預言者を遣わして警告を与えられたのだが、マナセは聞こうとしなかった。
そのため、マナセはアッシリヤによって鉤で捕えられ、青銅の足かせにつながれ、バビロンに引いて行かれた。
この苦しみの中で、マナセはへりくだって祈った。主はマナセを解放し、マナセは主に立ち返った。
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主を捨て去って、どんな罪にまみれてしまったとしても、主はご自身の民を決して見捨てられはしない。
絶えず、主に立ち返るよう、手を差しのべておられる。
罪の中、苦しみを通るかもしれない。
「ごめんなさい。」と御前にへりくだる心が大切である。
御前にへりくだった時、主の大きな愛を知る。
その愛によって、私たちは、罪から離れることができるのである。
神の民であることは、何と幸いなことだろうか。

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2013年5月15日 (水)

試練は心を見るため

「バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」(Ⅱ歴代誌 32:31)

奇跡的にアッシリヤの王の手から、救われたヒゼキヤのもとに、多くの人々が主への贈り物を携えてやってきた。
このうわさが広まり、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。
ヒゼキヤは、主に栄光を帰することをせず、かえって心を高ぶらせた。
そのころ、バビロンの王がヒゼキヤのもとに使者を遣わした。
ヒゼキヤは、その使者に、家の中や宝物倉の物をすべて見せびらかした。
神は、ヒゼキヤの心にあることを知るために、なすがままにされた。
結果、ヒゼキヤが見せびらかした財宝がバビロンに持ち去られ、子供たちも捕虜として連れ去られる日が来ることが、預言者イザヤの口から伝えられたのであった。
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試みは「心見」に通じるそうである。
自分の祈りを通して、神の偉大な証しが成った後は、要注意である。
その証しを自分のものと思い違いをせず、神に帰そう。
高ぶりは破滅への道である。
神の沈黙は、試されている時である。
心を見ておられる神がおられることを、いつも忘れずに歩んでいこう。

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2013年5月14日 (火)

神に立ち返ろう

「あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(Ⅱ歴代誌 30:9)

ヒゼキヤの治世の第6年に、北イスラエル王国の首都サマリヤはアッシリアにより陥落した。
宮きよめの宗教改革をなしたヒゼキヤは、全イスラエルとユダに、主に立ち返り、過越のいけにえを捧げるよう呼びかけた。
このようにヒゼキヤは、既にアッシリヤ捕囚という憂き目にあったイスラエルの民へ、神への招きの言葉を伝えたのであった。
「神に立ち返れ。そうすれば、主はアッシリアの王たちの手をのがれた者たちのところに、帰って来て下さる。主に対して不信の罪を犯した兄弟たちのようになってはならない。あなたがたが見たとおり、主は彼らを恐怖に渡された。主に立ち返り、主に仕えなさい。あなたがたが主に立ち返るなら、あなた方の兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来る。」
この言葉を物笑いにし、あざけった者もいたが、この言葉を真に受けとめ、心を一つにしてやって来た者たちもいた。
信仰に立ったユダの民、この後、エルサレムを攻めに来たアッシリアの手から、主は民を守られた。
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神である主は、情け深く、あわれみ深い方。神は愛である。
人は、すべてが好調であるなら、神を必要とはしない。
うまくいかないこと、苦しい出来事を通して、神はご自身を現される。
こうして、私たちは高ぶりから守られるのである。
主につまずきそうな時こそ、主に立ち返る道を選ぼう。
主は、ご自身を呼び求める者から、御顔をそむけるようなことは決してなさらないお方なのだから。

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2013年5月 5日 (日)

本当の実を結ぼう

「なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。
これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」(伝道者の書 2:26)

SさんとOさんは友だちであった。
Sさんは社交的で明るい性格で、いつも人の中心にいた。
Oさんは物静かで、消極的であった。
やがてSさんは、ある出会いがきっかけでクリスチャンになった。
そしてSさんの影響を受け、Oさんもクリスチャンになった。
Sさんは、持ち前の社交性で、どんどん伝道し、何人もの人が救いを受けた。
Oさんは、主を知るために、聖書をよく読み、祈った。
やがて、Sさんは消極的なOさんを見下し、「私は10人もの人を救った。」「実を結ぶかどうかが大事だよ。」と自慢するようになった。
そういわれる度に、いまだ人を救いへ導けていないOさんは、心揺り動かされ、祈るのであった。
「主よ、私にも霊の子を与えてください。」と。
Oさんは知らなかった。Oさんの祈りで、どれだけの人が神のもとに来たかを。
そして、Sさんの導いたどれだけの人々が、Sさんを通して見る神につまずいていったかを。
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人を救われるのは、聖霊なる神の働きである。
神は、必要に応じて、人を用いて下さる。
救いは、神と人の共同作業である。
しかし、思い違いしてはいけない。神は必要ならば、ろばの口をも開かれ、用いられるお方である(民数記 22:28)。
「実を結ぶ」は、御霊の実を結ぶ意味である(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)。
私たちにできることは、主を信じて従い通すことだ。
主は知恵と知識と喜びを与えて下さり、その知恵や知識や喜びによって、人は神を知り、ゆるぎのない信仰へと導かれる。
みこころに従った歩みを心がけていこう。

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