2018年11月19日 (月)

『さばく力-争いの仲裁-』Ⅰコリント人への手紙 6章1節~11節

『さばく力-争いの仲裁-』 Ⅰコリント人への手紙 6章1節~11節(新改訳聖書使用)

罪の容認

 党派、不道徳、訴訟、偶像にささげられた肉、主の晩餐の濫用、偽使徒、結婚の諸問題、集会における無秩序な行為、教会における婦人の位置、復活に関する異端・・・、交通の要所であったコリントの町は、いろいろな人種が入り混じっていたために、教会内にもいろいろな問題が起こっていた。商業貿易の中心であったコリントは、邪悪かつ不道徳な町として有名であり、コリントという語が、堕落と同義語にさえなっているほどの不品行の町であったらしい。性的にも放縦に暮らしていたコリント人たちは、このような土壌、環境のもと、救われた後もこの習慣をきっぱり断ち切ることができない者が教会内部にもいた。教会の中で、継母を妻にしたという不品行の罪がパウロの耳に届いた(Ⅰコリント 5:1)。父がすでになくなっていようが、父とはすでに離婚していようが、どんないいわけをしたとしても、父の妻と関係を持つことは、律法ではっきりと禁じられている(レビ 18:7,8)悔い改め、方向転換するべき罪であった。コリント教会のクリスチャンは、このような罪が教会内にはびこっていても、なお、誇り高ぶっていた。教会の中では、個人の罪は、一個人の罪にとどまらない。周囲は、クリスチャンの罪として見る。キリストのからだの罪となり、「クリスチャンがあのようなことをしている。」と主の敵に大いに侮りの心を抱かせることになるのである。ダビデが、ウリヤの妻と不品行の罪を犯し、その罪を認めたとき、ナタンは言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(Ⅰサムエル 12:13,14)キリスト者の罪の容認は、キリストを侮らせることになるのである。

 教会の中で、罪が発覚したときの正常な反応は、痛みと悲しみである。パウロが、「そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。」(Ⅰコリント 5:2)と言っている「悲しむ」の原語は、死者への追悼をあらわすことばである。罪に対するいいかげんな態度は危険なものである。罪に慣れ親しんでしまうからである。そのうちに、罪がわからなくなる。麻痺してしまうのである。罪悪感があるうちは、まだ、立ち返るチャンスがある。罪に対する唯一の安全保障は、罪を見てショックを受けることであると、バークレーは言っている。これがなくなってしまうと、罪がわからなくなり、容認していくことになるのである。愕然として、みずから傷つき痛むべきものである。キリストを十字架にかけた人類すべての罪、これにショックを受けることなしに、キリストを知ることもできないし、よって、救いもない。パウロは、「私のほうでは、…そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。…私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリント 5:3-5)パウロは、このように罪から離れられない者を、主の権威を用いて、教会の交わりから断ち、世に戻したのである。これは、パウロの愛から出ていた。除名することによって、罪の重大さを悟り、新生するためであった。罪の予防と治療のためである。このようにさばいたパウロが、むしろ、罪を黙認し、見逃していたコリントの兄弟たちを「高慢」(Ⅰコリント 5:2,6)と呼んでいることに注目したい。神を知らない者にとっては(神を無視するなら)、「主イエスの御名によってすでにさばきました。」と言いきれるほうが、高慢に聞こえ、「他人の罪を扱うなんて、おまえは、何者なのか。」と反論されそうである。主イエスが、屋根からつり降ろされた中風の男を「あなたの罪は赦された」と言っていやされた時、「律法学者、パリサイ人たちは、『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』」(ルカ 5:21)と言った。どっちが高慢であるか、いうまでもなく明白である。パウロがここで言っているさばきは、そもそも「さばく」と取るのが間違いなのであって、神の国を「治める」ということである。

 コリント教会は、黙認すべきではない事実、罪は見逃して、戦うべきではない罪でもない問題については、教会以外の権威に訴えてでも争うというふうに、与えられた治めるという機能を用いずにいた。神よりも自分の感情によって処理していた。この高慢というパン種は粉のかたまり全体をふくらませる。パン種というのは、前回パンを焼いたときから保存しておいた、発酵した練粉のことである。ユダヤ人は発酵を腐敗と同一視していた。パン種は腐敗させ堕落させる影響のことである。わずかなパン種が全体を腐らせるということである。

罪の取り扱い

 パウロは、以前、コリントの教会に不品行な者とつきあうなと書き送っていた(Ⅰコリント 5:9)ところ、コリントの兄弟姉妹は、それを、教会外部に当てはめてしまったいたようだ。これを外部に実行するなら、未信者に恵みを知らせるどころか、さばくようなこと(断罪、高慢)になっただろう。コリントのような不品行のはびこる町では、教会は孤立化してしまうことになる。パウロが、真に意味するところは、「もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということで」(Ⅰコリント 5:11)であった。この思いは、先に述べたように、罪を犯している兄弟を悔い改めに導くため、主を侮らせないためであった。

 続けて、パウロは述べる。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(Ⅰコリント 5:12,13)教会外部の人たちの罪は、神を知らないでしていることゆえ、その人たちにしなければならないことは、福音を伝えることであって、さばくことではない。神のみが人の心を知っておられる。未信者については、神にさばきをゆだねなければならない。教会内の人については、互いに訓戒し合うという責任がある。神を知っている者同士としてできる特権である。もちろん、兄弟愛に基づいて、柔和に、である。断罪する心しかないなら、問題であるが。愛の心が問題なのである。神が明らかに罪であると断言しているにもかかわらず、悔い改めない兄弟のそのような罪を見過ごすことこそ、高慢なことである。罪を指摘されていい気分になる者はいない。神よりも自分の立場を重視しているからである。そうであるからこそ、パウロは、内部の人たちをさばきなさいと言っているのである。日本人にとっては、苦手とするところである。しかし、愛があるなら、死をもたらす罪(「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23))を見過ごしにできるはずはないのである。罪の指摘と言ったが、悔い改めない者に対してであって、いつでも、どこでも、誰にでも、ということではない。

治めることの大切さ

 パウロは続ける。「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。」(Ⅰコリント 6:1,2)裁判官には六法全書がある、それ以上のものとして私たちには、聖書がある。「これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」(民数記 35:29)確かに、愛ではなく、律法的にさばくのはいけないが、善と悪を教える聖書に基づいて、正しく神の国を治めていくことは、しなければならないことなのである。これをせずして、一致できるわけがない! 不義が通っているところには(無法がまかりとおっているところには)一致など生まれるわけがない。治める者がいなかった士師の時代、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なって、堕落とさばきつかさの台頭をくりかえしていた無秩序の時代を思えば、いかに治めることが大切か理解できることだろう。治める者が使徒や預言者と並ぶ務めの賜物として、あげられているのは、それだけ重要だからである。「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(Ⅰコリント 12:28)「さばく力」それは、主からくる賜物なのである。

 だれひとりとして、問題の解決にかかわろうとしない状態をパウロは、嘆き叱責する。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(Ⅰコリント 6:5)また、次のようにも言っている。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(Ⅰコリント 6:9,10)クリスチャンの罪は、過去から未来にわたって、赦されているから、大丈夫などとパウロは言ってはいないのである。このことは、キリスト者であるコリントの人に言われたことであることを重視しなければならない。「神の国に入れない」と言っているのである。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ 6:1,2)キリストの律法、神への愛と人への愛、を全うするために、互いの重荷を負い合い、正していくことが神の国には必要なのである。「傷つくほうが悪い。」というメッセージを幾人かの口から聞いたことがある。神の国は、弱肉強食の世界ではない。傷ついたほうにも問題がある場合もあるのかもしれないが、相手があってのこと、どっちもどっち、重要なことはその心、愛である。たとえ、傷つくほうが悪いとしても、「傷つくほうが悪い。」と言っているところに、行きたがる人がいるであろうか。

 今までの個所で、パウロは「さばけ」と言っているが、他のところでは、パウロは、さばくことをとがめているし(ローマ 2:1-6, 8:1, 14:4, 8:33)、自分をさばくことすらしないと言っている(Ⅰコリント 4:3)。主イエスだって、さばいてはいけないと言って、自分の梁をそっちのけにして、他人のちりを除こうとする行為を指摘している(マタイ 7:1, ルカ 6:37)。さばけと言ったり、さばくなと言ったり、聖書はどっちを言っているのか、となるところである。神の国は、愛の国である。このときはこうすること、と単純にマニュアル化して決められるような単純なものではない。その心が、動機が、神への熱心でもなく、愛でもなく、ただ非難し、他人をさげすむような高慢であったなら、してはならないことである。

 この罪の扱い方について、他の個所も見てみよう。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ 18:15-18)クリスチャンには、罪の赦しの権威までもが与えられている。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ 17:3)詳訳聖書で見ると、「気をつけなさい。<いつも自分で注意していなさい<互いに見張っていなさい>。もしあなたの兄弟が罪を犯し<的をはずし>たならば、彼にまじめに話し<彼を戒め>、悔い改めたならば<罪を犯したことを悔いていたら>、赦しなさい。である。罪の自覚も悔い改めもないのに、赦すようなことは、神はなさらない。罪を知らない者の何を赦すのか、赦しの必要を感じていない人の何を赦すのか、キリスト教は、ひとりよがりに慢心する宗教ではない。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――」(Ⅱコリント 13:5)キリストが内在するなら、キリストを十字架にかけた罪に対して、いいかげんにしておくことができないはずである。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」(箴言 27:6)まだまだ、あるが、要するに、愛という動機が大切であるということである。

実例

 実際、神の人が、罪をどのように扱ったかを、旧約新約それぞれ見てみよう。旧約では、先程も少し触れたが、ダビデ王が、ウリヤの妻バテ・シェバと不品行の罪を犯し、罪をごまかすために、夫のウリヤを戦地で死ぬように計った例を見る。ウリヤが死に、ダビデは、バテ・シェバを妻とし、バテ・シェバは男の子を生んだ。主の預言者ナタンを通じて、罪とさばきが言い渡され、ダビデは、悔い改めた(Ⅱサムエル12章)。ダビデが罪を犯してから、子供が生まれ、病死するまで一年以上はたっていることになる。また、このナタンが言ったもうひとつの罪の刈り取りともいえる三男アブシャロムの謀反は、さらに数年、数十年の後のことである。このように、神の国に深くかかわる罪をナタンが、王であるダビデに、喜んで告げたはずがない。王の心次第では、殺されかねないのである。罪に対する痛み、悲しみ、神や神の民に対する愛ゆえに、できたことである。

 新約では、バプテスマのヨハネを見てみよう。ヘロデ王が、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを妻としていたことをヨハネが「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と告げた(マルコ 6:18)。自分の兄弟の妻をめとることは、兄弟をはずかしめる忌まわしい行為であって律法で禁じられていた(レビ 20:21)。ヨハネは、捕えられ、牢につながれ、祝宴の余興として、首をはねられ殺された。罪を侮る者にとっては、ヨハネの死は、ばかばかしく見えるのだろうか。「のこのこ言わなくてもよいことを王に言いに行き、牢屋に入れられ、証しにならない死に方をした」とでも言うのだろうか。主イエスは、獄中のヨハネを「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ 11:11)「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ 11:14)と言い表した。

 パウロは、罪を扱わない教会について、言ったのである。「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。」(Ⅰコリント 6:2)「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(Ⅰコリント 6:5)

 教会の一致のためには、さばく力、仲裁による問題解決、治める賜物をも求める必要がある。

落ち穂の会

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2018年11月14日 (水)

とこしえのいのちの祝福『兄弟たちの和合-一致-』詩篇133篇1節~3節

『兄弟たちの和合-一致-』詩篇133篇1節~3節(新改訳聖書使用)

心の風邪であるうつ病

 今月半ば(2012年1月)に、「今日的うつ病の問題」というセミナーに出席した。 そのセミナーで教授が言われたことには、今日、うつ病で病院にかかっている人は、100万人くらいいるとのことだ。 それは130人に一人という割合であり、日本の人口の1%近い割合である。 これは、受診した人数なので、実際のうつ病患者は、もっと多く、人口の3%と言われる研究者もいるそうだ。 また自殺者がここ13年間連続して3万人を超えていて、そのうちの60%はうつ病によるものと考えられているそうだ。 これは交通事故死の4、5倍だそうであるが、どの世代に多いかというと、昔は20代前半に多かったのが、最近は50代に多いという傾向があるということである。 震災から8か月、心病む人は、更に増えていくと思われる。うつ病は早期の対応で防げるもので、また「心の風邪」と言われ、必ず治るものであるが、こじらせることで死に至ることもあるそうである。

 今日の詩篇の箇所は、表題に「ダビデによる」とあるが、これはダビデを記念するという意味の「ダビデのための」とも訳せる語が使われていて、捕囚帰還後の時代の作という見解もあり、必ずしも作者がダビデとは限らないと言われている。 とはいえ、作者が誰であっても、兄弟姉妹が一つになって、共に住む喜びを詩っているものである。今日の主題となる1節のことば、口語訳では、「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) とある。ただ義務的に一緒にいるのではなく、仲睦まじく平和に一緒にいる一致を語っている。

4枚の絵

 日本の人たちがキリストの愛を知って救われることを祈る中で、私はカウンセリングに導かれました。 日本の人たちがキリストの愛を知るために必要なものはキリストによる愛の一致だということを長年の試練の中で学んでのことです。 この3月に私は神学校を卒業しますが、神学校に入る前の7年間は、小岩栄光キリスト教会のブランチとして、教会に行けない人たちとともに、日野の地区で落ち穂の会という礼拝を持っていました。 それぞれ全く異なる3つの正統と言われている教会を主に導かれて通り抜けた末に、与えられたビジョンに従ってのことでした。 このビジョンについて、今まで私に与えられてきた幻が4枚の絵で残されています。 1枚1枚は、それぞれその時に応じて、与えられたものです。(著作権があるので、サイトでは紹介できません)

 救われてすぐ(1994年)、礼拝を守るためにある試練が起こりました。 その時の所属教会の牧師先生に相談しようとしたところ、「君は、そのようなことで悩んでいるのかね。世界にはもっと大変なことで悩んでいる人が多くいるんだよ。そのような悩みは5年もすれば忘れているよ。」という一言が返ってきました。 その時、私は、こう思ったのです。「カウンセリングは賜物なんだ。教会にはカウンセリングの賜物を持った人が必要なんだ。」(幼い信仰ゆえの間違いです。) こう思った私は、祈りに覚え、賜物を持った誰かを送って下さるように祈り出しました。 また、この頃、カトリック信者の義理の姉から「プロテスタントは分裂分派や異端が多い」と言われていたので、マルチンルター以来、分裂分派を繰り返していることへのとりなしと一致への祈りを始めました。 3年弱が過ぎた時、夫の実家の近くの教会(アッセンブリー教会)で見た絵が妙に心に焼き付いて離れない、ということがあり、譲ってもらいました。 崖から落ちてけがをして歩けなくなった羊を、救おうと手を差しのべている羊飼いの絵でした(1枚目)。その直後、とあることで、1つ目の教会を出されたのです。

 2つ目の教会の初めての礼拝で目を閉じて「キリストには変えられません」を賛美している時のこと、 「大きな傷から血を流している羊が、イエスさまの足元に来て受け入れられる」光景がすっと現れ、消えていきました(2枚目)。 この時、この幻が教会から譲り受けた1枚目の絵とリンクし、大きな慰めを得ました。 メッセージや交わりですっかり癒され、1年半ほど過ごした頃、ある姉妹が私と祈った時に異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたことで、教会にいられなくなってしまいました。  この姉妹を教会につなげようと行った3つ目の教会は、伝道熱心な韓国の長老派系の先生の教会でした。 訪問伝道をしていると、外国の気さくな先生だったためか、牧師の訪問が珍しかったからか、わりと戸を開けて話を聞いてくれたんですね。 意外だったことに、狭い町の中、過去に教会に行ったことがあると言う方が結構いたんです。そこでは1年弱過ごしました。

 3つの教会を出された私は、気付くと深く祈れなくなっていました。 この頃、2つ目の教会から信仰を共に歩んで来た友人がそばにいて、祈れない中、ともに支え合っていました。 ある時、主に心を注ぎ、祈っていたところ、私にみことばが、友人に幻が与えられました。 主は、小さな洞窟の中で小さなランプの暖かな炎が暗やみを照らしている光景(3枚目)を見せると同時に、「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」(伝道者 9:8)と、祈りの炎を絶やさないよう言われたのです。 また、この後、帰宅して祈っていると、2人同時に同じみことばが与えられました。 「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、 ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。 万軍の主の熱心がこれをする。」(イザヤ 37:30-32) こうして通常の教会の交わりから絶たれた人のために、「落ち着ける教会が見つかるまで」という条件の下で、家庭を開き、礼拝を始めました。 当時学んでいたカウンセリングスクールに来ていた人の紹介で、吉山先生のサポートが得られることになりました。 何人かの人たちが礼拝に集い、マンションで開いた「ごすぺるの会」にも近所の人が集まり、友人の家族も救われていったのですが、通ってきた状況ゆえに、教会から離れての牧師不在の礼拝には、 安心感がなく、6年が過ぎた頃には、限界が来てました。その頃、友人が、この3枚目の幻には「もう一面の光景が見えていた」と違うパターンのものを描きました。 祈りの炎を斜め前方の角度から、見たもので、砂のような土が炎を守るように、覆いかぶさろうとしている絵でした(4枚目)。 よく見ると、ぱっくりと蛇の口になって火を呑み込もうとしているように見えました。この絵をいただいた後、私にはこれが気味悪く思えてきて、返してしまいました。 返した翌日、心に響く声がありました。「祈りの炎を消そうと呑み込もうとするものは、あなたは今まで戦っていたものではないか。気味が悪くて当然だろう。」 私はこの時、主が描かせた絵だということを知り、友人を信じきれなかった自分にも気付きました。 友人に謝罪した時は、もう遅く、関係は悪化していきました。この絵により、神の子同士の関係を崩し、一致を妨げようとしているものが存在し、教会が本来の力を出せないでいることも知りました。

 友人とのメールのやりとりがあったある日、職場でメールを見た時のこと、頭が締め付けられるように痛み、 「こうやって、人は心がおかしくなっていくのかぁ。牧師先生は、このような重圧に耐えて牧会しておられるのだなぁ」と思った時、3つの教会でのことが理解できたのです。 そして、支え合う(特定ではなく)多くの兄弟姉妹の必要、教会の必要を改めて悟ったのです。 友人を誰かに託さないと、共倒れになる!と思った私は礼拝を閉めました。 放心した状態で、年末断食聖会に臨み、これからどうしたらよいかと、今までなぜこのような道を通らなければいけなかったのかと、主に尋ねた時のこと、最終日に「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師記 6:14) というみことばが臨み、再献身の心が与えられました。そして、教会に行けなくなった人たちとの「安心感を与えるためのネットワーク作り」の基礎を作るために、押し出されるように、神学校に入りました。 しかし、7年間心を注ぎ、はぐくんできた礼拝を閉めざるを得なくなったことが、私の心に大きく影響を及ぼしていたのです。 入学して1カ月経った頃のこと、腰に痛みを覚えました。数年前にも椎間板ヘルニアにより、2,3回の腰痛を経験していたので、今回も1週間ほどで治るだろうと思ったのですが、この腰痛は1年間続きました。 時には、トイレにもはいずって行かなければいけないほどでした。また、礼拝を閉める時の頭痛も時々、起こっていました。 頭痛のほうは、いろいろな検査の結果、目の疲れなどから来る緊張性頭痛と言われていました。どのような痛み止めの薬も治療も効かなかった腰痛が、ある時、緊張性頭痛の薬を飲むと痛みがなくなったのです。 その薬は、筋肉の緊張を解くために処方された抗不安薬でした。 心から来ているのか?と思い、カウンセリングではフォーカシングといって、人がまだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向けるやり方があり、 気付きを与えてくれる手法があるのですが、痛みに心を傾けてみました。すると、ひどく痛む中で、「このような体の痛みより、心が痛い…。」と痛みがこう伝えてきたのです。 この腰痛は、それから自分自身の感情をケアしつつ、決められた2回の教会派遣を全うし終えた時に、完全に癒されました。

 ところが、頭痛の方は、ずっと継続しているわけではないので、楽観視していたところ、神学校時代の4年間、事ある度に出現していました。 3年ぐらいすると、頭痛の出るタイミングがわかってきていました。 普段の生活や職場上のことでは出現しないのですが、教会の中で、一致を乱すようなトラウマになっている出来事を見た時に、起こっていました。 時々とはいえ、起こると数日続くこともあり、薬を飲むのもつらくなっていきました。 カウンセリングのセルフケアでわかったことは、この頭痛は、行き場がなくなることへの不安による怒りを訴えていたのだということでした。

一致

 教会が弱体化する原因は不一致である。 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(守り続けるように努めなさい。〈口語〉)」(エペソ 4:3)「平和の繋つなぎのうちに勤めて御霊の賜う一致を守れ」〈文語〉 とあるように、教会の一致は私たちが作り上げるものではなく、既に御霊によって存在しているものとされている。 既に存在している一致を崩そうと人間関係に働いてくる敵がいることを忘れてはならない。 ある時、1枚の絵ハガキに心が動かされた。十字架を中心に人々が輪になって楽しみ喜んでいる絵であったが、今日読んだ詩篇のみことばが書かれていた。  「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉) 聖書を見ると、この様子は、2つの例えで表されている。

一致の2つの例え

 ①「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」(詩篇 133:2)大祭司は、その働きにつく時の任職の聖別のため、定められた調合法に従って作られた、聖なるそそぎの油を、頭に注がれた。大祭司は、 「胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯」(出エジプト 28:4)といった 「栄光と美を表す聖なる装束」(出エジプト 28:2) を着用していた(主題からの学び:「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅰ)」「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅱ) 」 「幕屋(栄光と美を表す聖なる装束Ⅲ)」参照)。 その肩には、十二部族を生まれた順に六部族ずつに分けて記名した2個のしまめのうをはめた肩当てが付けられ、その胸には、 十二部族を表した12個の異なる宝石が4行3列にはめられたさばきの胸当てが留められていた。油が「ひげに流れて」「えりにまで流れしたたる」  と上から下に流れ落ちてくる様子が2度繰り返され強調されている。兄弟たちが一つになってともに和合していることは、神の子たちに流れる天からの祝福のように、喜びに満ちたことである。

 ②もう一つの例えは、「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3) ヘルモンは、ガリラヤ湖のずっと北の方にある山脈で、聖書辞典によれば、最高峰が2800メートルを越える頂を3つ持ち、長さ32キロにも及ぶ連山であり、そびえ立つ光景は、 周囲の町々から畏怖の念を抱かせるほどであった(ネットで見た雪のヘルモン山は、日本の北アルプス、立山連峰に似た大パノラマの光景のようでした)。 この周囲の地域は乾燥地帯であり、ヘルモンの山頂は、年間を通じて雪で覆われていて、急激に冷やされた大気中の水分が、大量の重い露となって大雨に見えたほどに山を潤していた。「シオン」の語源には、「乾き切った場所」という意味がある。「山々におりる」「おりる」は、2節で2回繰り返し使われていた「流れる」と同じ語が使われている。兄弟たちが一つになってともにいることは、乾き切ったところに流れ、一帯を潤すヘルモンの露のように、 その交わりは、しなびた草木をも生き返らせるような、命の喜びに満ちたものである。

 この詩篇は「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇 133:3)「とこしえに命を与えられたからである。」〈口語〉で締めくくられている。主がシオンにとこしえに命の祝福を置かれたように、兄弟姉妹の和合・一致に主は祝福を置かれていると、言われている。 教理の正しさとか、正しい行ないも大切だが、それよりも大切なことは、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する「愛」である。 そのような愛があれば、「神は愛である」(Ⅰヨハネ 4:8,16)という聖書の神の真理に到達する時が必ず来る。「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1〈口語〉)自分の価値観で判断しやすい私たちは、正しいお方は神だけである、という認識を忘れずに、一致を守っていきましょう。 今やうつ大国と言われるようになった日本の国に、この麗しさ、楽しさが伝わり、主にある絆によって、この国が喜びに満ち溢れますように。

落ち穂の会

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2018年4月 9日 (月)

献金の真実「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書21章より~

『献金の真実-金持ちと貧しいやもめの献金-』ルカの福音書21章1~38節(新改訳聖書使用)

献金の心

 前章では、主イエスは、律法学者たちについて気を付けるよう弟子たちに教えられていた。主イエスが目を上げて見ると、「金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。」(ルカ 21:1)現代の日本で言うなら、賽銭箱に賽銭を投げ入れるような感じである。賽銭箱に金持ちたちがお札を投げ入れる行為は、人々の目を引き、時にニュースになることもあるが、多く捧げる人は、当時も人々の興味を引いていたことだろう。金持ちたちが献金を投げ入れる中、ある貧しいやもめがレプタ銅貨2つを投げ入れているのが、主イエスの目に留まった。  レプタ銅貨というのは、1デナリ(当時の1日分の賃金に相当)の128分の1で、現在の1日分をざっくり1万円として換算するならば、1レプタは約78円となる。レプタ銅貨2つは160円に満たない額である。聖書では、神への捧げものの目安として、十分の一が示されているが、

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創世記 14:20で、アブラムはすべての物の十分の一を、いと高き神の祭司メルキゼデクに与えている。

創世記 28:22で、ヤコブは神に「すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」と請願を立てている。

・律法での捧げものの規定で、十分の一という割合が示されている(レビ 5:11, 6:20, 14:21, 27:30, 27:32民数記 5:15他12ヶ所申命記 12:6他6ヶ所レビ 27:30では「それは主の聖なるものである。」と書かれている)。

・続く旧約聖書では、至る所で十分の一の概念が出現し、マラキ 3:8に続いている。

・新約聖書でも主イエスは、十分の一を土台として語られている(マタイ 23:23、ルカ 11:42, 18:12)。

ヘブル 7章でもこの概念は引用されている。 十は神の十全を象徴する数値である。 ---------------------

それをそのまま掟としてとらえると、神の愛が見えなくなる。献金を税金のような規則としてとらえると、神は取り立てる方のようにしか見えなくなるだろう。まだ累進課税を取り入れている税金のほうが公平に見えてきてしまうことになり、ミナのたとえの1ミナを預けられた者のように、「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方」(ルカ 19:21)と歪んだ神に見えてしまうことになりかねない。

 十分の一は目安であると言ったが、金持ちの十分の一と困窮者の十分の一は、額も重みも違う。金持ちが十分の一としていくら大金を捧げても、ありあまるほどの十分の九が残る。痛くもかゆくもない。ただし、目安がなければ、捧げる行為は軽んじられていくことになる。どうでもよい額(量)ではなく、さりとて困窮することのない額(量)が十分の一なのである。ただし、捧げものは、額(量)ではなく捧げる心が大切である。捧げる対象は人や教会ではなく、神に捧げるものである。また、喜んで捧げることができない時は、捧げることができなくても、神はその心をご覧くださる。献金は、人との関係ではなく神との関係だ。主イエスはパリサイ人たちが律法通りにすべての十分の一を捧げているのを知っておられたが(マタイ 23:23、ルカ 11:42,18:12)、行いを自負する心を秘めながら、みもとに聞きに来る人たちには、持ち物全部を売り払い、貧しい人に施すように言われている(ルカ 18:22、マタイ 19:21)

 主イエスは、やもめがレプタ銅貨2つを献金箱に入れるのを見て、「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ 21:3-4)「真実を告げる」と重要な教えであると前置きされている。貧しいやもめが捧げた160円(レプタ銅貨2つ)は、惜しんだ末に、少ない額を捧げたものではなく、手持ちの全生活費であった。今日食べるものがない、明日もどうなるかわからない、その中で、神のもとに来て信仰によって捧げた生活費全部であった。

 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)  「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(Ⅱコリント 9:7-8)

終わりの時

 額(量)ではなく心だとは言っても、人間は豪華できらびやかな物や裕福さに目を留めがちである。「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。」(ルカ 21:5)その会話を聞いた主イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ 21:6)と言われた。

 ユダヤ人とローマ帝国の戦い(ユダヤ戦争)で、起源70年にエルサレム神殿は崩壊した。しかし、この時の崩壊では、神殿の壁の一部(嘆きの壁)の石は積まれたまま残っている。27節には、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」と主イエスの来臨が語られているが、これは、世の終わりに起こることである。恐ろしいことが書かれているが、それはどの視点で見るかによる。信仰者にとっては贖いの日であり(ルカ 21:28)、恵みの時であることも盛り込まれている。「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」(ルカ 21:18)

 この章では、その時になすべきこともいろいろ教えられている。罪の結果を刈り取る終わりの時が近づく中での、主の愛である。その一つ、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。」(ルカ 21:8)イエスの権威を自分のものであるかのようにふるまい、「時は迫っている」〈詳訳〉と人々をあおる者たちが大ぜい出てくるが、「そんな人々のあとについて行ってはなりません。」と言われている。この章に書かれている教えをよく理解し、心に留めて歩んでいこう。

落ち穂の会

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2018年3月26日 (月)

敵に向き合う知恵「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書20章より~

『敵に向き合う知恵-イエスに立ち向かう律法学者たち-』ルカの福音書20章1~47節(新改訳聖書使用)

福音を語るイエス

 ろばの子に乗ってエルサレムに入場されたイエスは、毎日昼は宮で教え、福音を宣べ伝えておられ、夜はエルサレムから東に「安息日の道のりほどの距離」(使徒 1:12、おおよそ1Km)にあるオリーブ山に戻って過ごされていた(21:37)。イエスが語られた福音とは何か。イエスが語られた福音=よい知らせは、神の国が近づいた、神は正しくさばかれる、悔い改めて神に立ち返れ、信仰をもって神に従いなさい、そうすれば救われるとイエスは民に語っておられた。その現れが、いやしであり、奇蹟であり、イエスが示す神の愛によって弱り果てていた人々は神を愛する力をいただいた。ローマの圧政、パリサイ人や律法学者たちの律法的な教えは、民を潤すことはなく、飢え渇いていた民たちはみな朝早く起きて、イエスの教えを聞こうと宮にいるイエスのもとに集まってきた(21:38)

イエスに立ち向かう指導者階級

 教えを聞いた民の心がイエスに向いていくので、宮での立場も危うくなってきた祭司長、律法学者、長老たちは、イエスに立ち向かっていく。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」(20:2)何とおそまつな質問だろうか。イエスの並ならぬ権威を認めているのである。「誰の許しを得てやっているのですか」でも「なぜこのようなことをしているのですか」でもない。そのような質問のほうがまともである。祭司長、律法学者、長老たちは、神の権威は感じていたのである(神だからあたりまえであるが)。イエスが「神の権威」と答えれば、神に対する冒涜罪で死罪にできたのである。それを言わせたいがための質問である。「もう我慢がならぬ」という感じで徒党を組んで立ち向かおうとやってきたのである。

向き合うイエス

 そのような質問にもかかわらず、主イエスは無視して相手にしないわけでもなく、がつんと言い負かすわけでもなく、立ち向かってきた相手に、知恵のある言葉で答えられている。考える余地を与え、拍子抜けさせるように導こうとされているかのように言っている。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」(20:3-4)質問をかわして話をはぐらかしているわけではない。バプテスマのヨハネは、イエスを証言してこの世を去っている(ヨハネ 3:26では、バプテスマのヨハネの弟子たちが「あなたが証言なさったあの方」とヨハネに言っていて、ヨハネは「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。」(ヨハネ 3:28)「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ 3:30)と言っている)。天からと答えたなら、イエスはそれ以上の人物だと認めないと矛盾が生じる。人からと答えると、民衆を敵に回す。民の上に立つことを好む彼らにそれはできない。祭司長らは「どこからか知りません。」(20:7)と答えている。民衆を教える立場の者たちであるのにかかわらず「知りません。」とおそまつな答えとなったのであった。

ぶどう園と農夫のたとえ

 イエスはこの後、ぶどう園と農夫のたとえを話された。またもや主人が何か(今回はぶどう園)を預け旅に出るという話である。旅先から収穫の分け前をもらうために主人が順に3人のしもべを送るが、農夫たちは袋叩きにしてひどいめにあわせ、傷を負わせて送り返す。どうしたものかと思案した主人は、愛するあととり息子を送れば、敬意を払ってくれるに違いないと遣わしたが(3度(3は神の完全数)送ったしもべにひどい仕打ちをされても、信じる愛がそこにある)、農夫たちは議論した結果、あととりを殺してしまえば財産はこっちのものだと殺してしまった。どうしてそのような発想になるのか、主人への愛もなければ、感謝も敬意もない。十分な収穫があっただろうに(主人が分け前を要求できる収穫があった)、もっともっとと元々自分の物でもないものにもかかわらず、欲に支配された結果である。息子を殺された主人は戻って来て、農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園はほかの人たちに与えた、という話である。聞いていた民衆は「そんなことがあってはなりません。」(20:16)と言ったが、同じ話を聞いていた律法学者、祭司長たちは、「イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとした」(20:19)とある。悔い改めの機会は、いつも目の前に置かれていた。しかし、いつも神を説いていた彼らは神の権威を見ても、神を認めず、つまり、神の存在を信じていなかったのである。

エスカレートしていく計画

 イエスと議論しても勝てず、捕えようとしても、民衆を恐れてできない。機会をねらっていた律法学者、祭司長たちは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った(20:20)。しかし、イエスはそのたくらみを見抜いておられ(20:23)、またもや知恵で返され、間者は、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、イエスの答えに驚嘆して黙ってしまうしかなかった(20:26)

 間者が黙ってしまったためか、サドカイ人が復活についての質問を投げかけ、イエスはきっちり教えられている。その答えは、律法学者に「先生。りっぱなお答えです。」(20:39)と言わしめるほどであった(「先生」と言いながらも上目線であるが)。律法学者たちは「もうそれ以上何も質問する勇気がなくなった」(20:40)とある。

 そこで、今度はイエスが、質問をされた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っているのに・・・」(20:41-44)ご自身のことを言われているのだが、答えを求めているのではない。人知を超えている事柄ゆえに、神の不思議に目を向けさせ、考える余地を与えられている。

 民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに律法学者たちに気をつけるよう、言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(20:46-47)

落ち穂の会

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2018年3月18日 (日)

小さな事にも忠実だったから「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書19章より~

『小さな事にも忠実だったから-ミナのたとえ-』ルカの福音書19章1~27節(新改訳聖書使用)

ザアカイの救い

 神のご計画があるゆえに、エルサレムに向かっていたイエスは、手前のエリコの町に入られた。エリコに近づく道ばたでは、盲人がいやされる奇蹟が起こっていた。19章は、取税人ザアカイの救い(1-10)、ミナのたとえ(11-27)、主に用いられたろばの子(28-35)、エルサレムに近づき喜んで賛美する弟子たちとエルサレムを思い涙する主イエス(36-44)、宮をきよめて毎日宮で教えられるイエス(45-48)という構成で書かれている。

 エリコの町に、ザアカイという取税人のかしらで金持ちがいた。多くの人々が押し寄せる中、背が低い彼は、イエスを一目見たいと、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。取税人というのは、ローマから税金を取り立てるよう委託された人である。当時のユダヤはローマの属国だったため、ローマに税を納めていた。取税人は、ユダヤ人でありながら異邦人のために働いている人とみなされ、また、規定以上の税額を徴収することによって私腹を肥やしていたため、同胞のユダヤ人から嫌われ、罪人とみなされていた。ザアカイはそのような取税人のかしら(元締め)であった。

 さて、前章で、イエスは、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(18:24-25)と言われたが、これは、「律法の戒めはみな、小さい時から守っている」と自負していた役人に、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(18:22)と言った際に、役人が大変な金持ちだったため、非常に悲しんだのを見て、言われた言葉であった。

 イエスの視界にザアカイが入った時、イエスのほうから声をかけられた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)思いもよらず個人的に、しかも名前を呼んで声をかけられたザアカイは、大喜びで急いで降りて来てイエスを迎えた。人々の目は、あいかわらず冷たかったが、もう気にならない。ザアカイは立ち上がり、イエスに言っている。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(19:8)このように言う金持ちのザアカイに、イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。…」(19:9)と言われた。

 前章の金持ちの役人には、「持ち物を全部売り払い…」で、できない様子に「裕福な者が神の国にはいることはむずかしい。」と言ったイエスが、「私の財産の半分を施す」と言ったザアカイには、「救いが来た」と言われたのである。何が違うのか。パウロは、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント 13:3)と言っている。主イエスが金持ちの役人に言ったのは、「財産全部を貧しい人たちに分け与える」という外面的な行為を言ったわけではない。ザアカイは半分でもOKだったが、役人が、たとえ役人が「また稼げばよいか」と財産全部を差し出したとしても、また、イエスの言葉を半分受け止めて、妥協案として「じゃあ、半分(十分ありあまるほどの財産の中、自分のために半分になっても十分だし)を分け与えます」と応じたとしても、受け入れられなかっただろう。アナニアとサッピラが受け入れられなかったように。

 役人とザアカイ、決定的に違うのは、その心根である。お金(世の楽しみや心配事)を見ているか、主イエス以外目に入らないほど神を愛しているか、である。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)これは、「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」と表題がついているが、ダビデ王(金持ち)が詠んだ詩である。

 同胞人から嫌われ、罪人呼ばわりされていたザアカイは、取税人のかしらとしての地位があり、お金持ちであったが、「だまし取った」(19:8)罪意識を持っていた。イエスが多くの人がいる中、自分に目をとめ、しかも泊まる家に選んでくださった、それだけで十分だった。稼いで得た財産の半分を施し、また、だまし取った物は、四倍にして返すという贖罪を語ったザアカイの言葉は、「悔い改めます。」と言葉で言わなくても、土下座しなくても、悔い改めの心が背後に伺える言葉である。真の悔い改めは、被害を与えていれば贖罪の心が伴うものである。そのようなザアカイに、イエスは言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(19:9-10)罪により失われていた魂が、イエスに出会ってその愛によって救いに預かったのである。

ミナのたとえ

 この後、これらのことに耳を傾けていた人々が、神の国がすぐにでも現われるように思っていたので、イエスは、ひとつのたとえを語られている。人々は、ザアカイが救われたように人々が救われ、いやしが起こっている奇蹟を見て、エルサレムにもうすぐ行かれるイエスが、エルサレムに乗り込み、神の国を打ち建てると思っていたのである。そのような状況に、イエスは、ミナのたとえを語られた。

 身分の高い人が王位を得るために、十人のしもべにそれぞれ1ミナずつ与えて、「私が帰るまで、これで商売しなさい。」(19:13)と言い残して、遠い国に旅に出る話である。マタイ25章にあるタラントのたとえと似ているが、マタイのほうは、能力に応じて異なる金額を預けていたが、今回のたとえは、みな同じ額である。1ミナは100デナリ(1デナリは1日分の賃金)、1タラントは6000デナリに相当する。タラントのたとえは、「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:14)と天の御国について語られていた。ミナのたとえは、神の国はすぐに現れるものではないということ(主人がいなくない間のしもべの過ごし方)が語られている。主観によって主人を恐れて1ミナをふろしきに包んでしまっていたしもべは、「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。」(19:22)「私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」(19:27)と、その人自身のことばと行動によってさばかれている。いくら「ふろしきに包む」という丁寧さを繕っていても、そういうことを要求はされていず、何にもならなかったのである。

 私たち主イエスのしもべは、等しく聖霊を預けられて、働きを委ねられている。たとえでは、主人が王位を得るために遠い国に旅立っている間、国の建設のために、忠実に商売し(どんな商売をするかはしもべに委ねられていた(15))、十ミナをもうけたしもべは十の町の支配権を与えられ、五ミナもうけたしもべは五つの町の統治権を与えられている。このたとえだけを見ると、もうけないといけないのかとなるところであるが、このたとえは金銭的な成果を言っているのではなく、忠実に仕える心を言っているわけである。与えられている聖霊とともに歩むと、主に会う時には、何かしらの実ができている(何人伝道できたか、人を救いに導いたかではない、人が救われるのは聖霊の働きであり、種を蒔くと実りは人手によらずなるものである)。聖霊を与えられて、働きを委ねられていることをかみしめて、主イエスに会う日を待ち望みつつ、歩んでいこう。

落ち穂の会

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2018年2月25日 (日)

義と認められる祈り「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書18章より~

『義と認められる祈り-自分を高くする者と低くする者-』ルカの福音書18章1~14節(新改訳聖書使用)

失望せずに祈ること

 17章では、「信仰を増してください」(17:5)と言う使徒たちに、主イエスが「なすべきことをへりくだってしなさい」と教えられていたが、こつこつと、なすべきことをなそうと心がけつつ、信仰生活を送っていると、うまくいかないことにぶつかり、ふとしたことで、「このままでいいのかなぁ」「祈りが足りなくてこうなっているんだろうか」「私にはもう無理だ、何かどこかで間違ったに違いない」などという思いがやってくることがある。時には人を通じて、やってくるかもしれない。その思いにとらわれていくと、失望→絶望→信仰をやめたくなる の迷路に入り込んでいく。

 そのように状況に左右され、失望しがちな私たちに、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、」(18:1)主イエスは、たとえで話された。不正な裁判官のたとえである。神はいつまでもすみやかに夜昼神を呼び求めている信者の訴えを放っておかれることをせず、正しいさばきをしてくださるお方だから、あきらめずにひっきりなしに祈れ、とイエスは弟子たちに教えられている。やもめという立場が弱い者がたとえに出されている。やもめは、裁判官に、対人問題(「私の相手をさばいて…」(18:3))に関して訴えていた。

自己顕示欲

 対称的に、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して、次のような祈りについてのたとえが語られている。パリサイ人と取税人の祈りのたとえである。パリサイ人たちは、自分たちはよく祈っている者だと思っていただろう。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(18:11,12)「ほかの人々のように」と他すべてを見下し、自分が選り抜きんでていると思っているのである。これは、御霊の実ではなく、サタン的性質である。パリサイ人については、「見えのために長い祈りをする」(マタイ 23:14)とも言われているが、ここでは、宮での心の中での祈りであり、人に見せるための長い祈りについてではなく、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している心が取り上げられている。「私は罪を犯したことがない。長時間祈るし断食もよくする。献金も神の分として律法に規定されている十分の一をしっかり行っている。」「私は祈ってなすべきことをみなしているし、伝道のために迫害や苦しみにあっているが、何があっても信仰によって進み続けている。皆さん、私を見て私のように信仰を働かせて下さい。」一見、強い信仰の持ち主のように思うかもしれない。神の本質を知らず、「なすべきこと」をはき違えると、他人をも見下すようになりかねない。聖書でいうところの「罪」を犯さない人間はいない。信仰者であっても許された罪人である。祈りであっても、断食であっても、献金であっても、行いを誇ること自体が、慢心である。パリサイ人の祈りは、信仰的な自分を神にアピールしている。「神」の語を使っていても、心は自分でいっぱいだ。

 半面、取税人は、罪を犯してしまう自分の弱さを熟知していて、全知全能の神にあわれみを乞うしかなかった。「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」自分では変われない、むせび泣くように胸をたたいて、言葉があふれたような心からの祈りであった。  パリサイ人たちだけでなく、人間は誰しも、人に認められたい、特に指導者や神など、上位にある者に承認を得たいという欲求が存在する。貪欲になり度が過ぎていくと人を落としても自分を引き立たせるようになっていく。マズローの5段階欲求説では、下層から「生理的欲求」、「安全への欲求」、「愛・所属への欲求」、「承認への欲求」、「自己実現への欲求」と人間の持つ欲がピラミッド式に上へと描かれている。マズローは、晩年第6欲求として自己超越欲求(自分のためだけでなく、他の人々や他の者を豊かにしたいという欲求)を発表している。神のみこころは、自己欲求が満たされ、かつ、神の似姿の第6欲求にシフトしていくことである。

承認欲

 28節では、弟子たちの「承認欲」からの発言があるが、主イエスは、根気強く愛をもって教えられている。「すると、ペテロが言った。『ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。』」

 パリサイ人と弟子たちの自己承認欲には、違いがある。違いはいろいろ挙げられるが、神の言葉をも自分の考えで曲げ、 神を利用しても、自己一致(自己概念〈そうであるべき自分、自己イメージ〉と自己経験〈あるがままの自分〉が一致している状態で、気持ちに嘘がなく、純粋であること。幼子のように…)がないままに自己を達成しようとする自己顕示欲か、自分に痛い所や弱さと向き合って、自分に必要な欲が満たされていないことを神に持っていき、主と共に歩む自己成長の道を選んでいくかがその違いの一つである。

 この時点(十字架前)での弟子たちには、目の前のイエスに従い、みこころに応えて、イエスに承認されたいという思いがあった。そのような弟子たちに、主イエスは、自分は十字架にかかって世を去ることを根気強く伝え、目に見える形で人間の模範として世に来たイエスではなく、神への信仰に立つように、導いておられる。

 この時の弟子たちには、十字架にかかって一度死に渡されることが人知を超えた事柄ゆえに理解できなかったが、目に見えるイエスがいなくなった時、信仰が芽吹き、聖霊の承認を得て、主のみこころ(なすべきこと)をなすよう力強く変えられて行った。主が与えた信仰が実を結び、自分ではなくイエスを証するものと変えられていったのである。

 18章では、見せかけの信仰とは異なる信仰の本質を、不正な裁判官のたとえ(1-8)、パリサイ人と取税人のたとえ(9-14)、幼子たちのように神の国を受け入れる必要(15-17)、金持ちが神の国に入ることの難しさ(18-25)、救いについて(26-30)、十字架とよみがえりについて(31-34)、盲人の信仰によるいやし(35-43)という流れで信仰の本質が語られている。

落ち穂の会

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2018年2月18日 (日)

兄弟を赦しなさい「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書17章より~

『兄弟を赦しなさい-あなたのところに来るなら-』ルカの福音書17章1~10節(新改訳聖書使用)

つまずきを起こさせる者

 16章でイエスは、弟子たちに「不正な管理人のたとえ」を話され、聞いてあざ笑っていた金の好きなパリサイ人たちに「金持ちとラザロのたとえ」を話された。その後、弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」(17:1)イエスの話を聞いてあざ笑ったパリサイ人たちは、イエスの話につまずいたのだが、別のところでパリサイ人たちは、律法を自分たち流に曲げ、人々に負いきれない荷物を負わせて、弱い者たちをつまずかせていた(11:46)。真理を語ったことにより、聞いた人がつまずくのは、避けられないことであるが(「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」(ガラテヤ 5:17))、罪によって小さい人ひとりにでもつまずかせることは、「そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」(17:2)と語られている。

聖書のいう赦し

 罪が原因でつまずきを起こす者については、「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」というさばきが待ち受けている状態であるゆえ、弟子たちに「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。」(17:3)と教えられるイエス。「戒める」ことが第一に言われている。次いで「そして悔い改めれば、赦しなさい。」(17:3)と赦しについて語れている。順番がある。ここで注目したいのが、「悔い改めれば」という語である。これは、赦しについて述べられた中では、ルカの福音書のみにある語であるが、どうでもよい語ではない。4節では「あなたのところに来るなら」とも言われている。罪を犯して悔い改める気もない者を、神は寛大な心で赦されたかを考えてみればよい。神がなさらないことを、神とともに歩む者がどうしてできようか。悔い改める気もない者を、自分を飾るために赦すなら、罪を犯した者を悔い改めから遠のかせてしまうことにもなるのである。それは神の愛ではない。宗教的な自己満足である。「悔い改めれば、赦しなさい。」とは「悔い改めない者を赦すな」と言っているわけでもない。その人が悔い改めるまで赦しを延期して、被害者はその案件をその人を含めて手放すのである。「彼(罪を犯した兄弟)を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ 18:17)と言われている状態である。ただし、これは主にある兄弟についてである。まだ、神を知らない人たちについては、悔い改め云々より、神の愛を伝えることが先決である。「悔い改めます」と罪を自覚して、悔い改めても、繰り返してしまうような場合は、寛大な心で「赦してやりなさい」(17:4)とも言われている。それも七度(完全数)。主の愛は偏ったことをなさらない。

信仰を増してください

 イエスの教えを聞き、信仰がないとできないと自覚したのか、使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」(17:5)私たちも祈りのなかで、言った覚えがあるのではないだろうか。主は、この願いに答えられている。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(17:6)そのようにできない使徒たちの信仰のなさを指摘されているのではない。わずかな信仰があれば、できるのだと前置きされたのである。そして、「ところで」(17:7)と耕作か羊飼いをするしもべのたとえを引き合いに、「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(17:10)と答えられている。主人のためになすべきことをあたりまえのようにしていくというのがイエスの答えである。私たちは、「私たちの信仰を増してください。」と祈れば、すごい体験をして、また自分の修行や訓練を神が認めて信仰を引き上げられることを待ち望むかもしれないが、主の答えは、主人である主を見上げ、しもべのようになすべきことを忠実に黙々と喜んでしていくなら、信仰が増し加えられていく、というものである。

 これを拒み、「『(神の国が)そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』」(17:21)という言葉を追いかけていくならば、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い」(17:33)という事態に陥ることになりかねない。日々、主の教えをかみしめて、忠実に世に光を指し示していこう。

落ち穂の会

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2018年2月 4日 (日)

不正の富で友をつくる「聖書で読み解くカルト化」講座~ルカの福音書16章より~

『不正の富で友をつくる-神と富に仕えることはできない-』ルカの福音書16章1~18節(新改訳聖書使用)

ルカの福音書

 ルカの福音書には、たとえ話が多く語られている。ルカの福音書は、ギリシヤ人を直接の対象に書かれたとされている(マタイはユダヤ人、マルコはローマ人)。ユダヤ人は、聖書(律法)を中心として生活していたので、マタイの福音書は、聖書を多く引用している。ローマ人は、政治と権力という理念によって栄えてきたので、マルコは超自然的な力を示すイエスの奇跡に注目させた。ギリシヤ人は知恵を追求し(Ⅰコリント 1:22)、教養、哲学、理性、美を意識していたので、その心に訴えるよう描かれている。教養的、哲学的であったギリシヤ人は議論好きで、その様子を、ルカは、使徒の働きの中で、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(使徒 17:21)と記している。議論好きの彼らは、たとえ話を興味深く聞いたことであろう。

 今日の箇所は、「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」の2つが語られている。どちらもお金にまつわる話である。15章ではやってきた取税人や罪人たちに「放蕩息子のたとえ」が語られているが、「不正な管理人のたとえ」は弟子たちに、「金持ちとラザロのたとえ」は一緒に聞いていた金の好きなパリサイ人たちに向けて語られている。

不正な管理人のたとえ

 「不正な管理人のたとえ」は、ルカによる福音書の中でも一番難しい箇所だと言われている。主人にお金の管理を任されていた管理人が、他の人からの訴えによって、主人のお金を乱費して首になろうとした時に、助けてもらおうと証文に細工をして債務者に恩を売ったところ、その行為を主人がほめたというたとえであるが、普通に考えれば、管理人は主人のお金を使い込み、自己中心的な考えで、証文を偽り、とがめられて当然のような話であるのだが、このたとえでは主人がほめ、主イエスも「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」(ルカ 16:9)と評価しているのである。聞いていた弟子たちは、さぞかし意表を突かれただろう。このたとえでは、訴えた人や管理人、主人の人格の詳細は述べられていない。

 「不正の富」と言われているが、ある牧師は、「富はすべて不正な富である。富というのは、正当な手続きで得た富であっても、どこか不正なものがこびりついているし、そうでなくても富というものはいつでも私たちの心をそこに執着させて、神から引き離そうとする。」と言っている。極端かとも思われるかもしれないが、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ 19:24)と主イエスも言われているように、聖書ではマモン(富)は貪欲に通じる、神に反するものとして描写されている。

 「自分たちの世については、世の子らは光の子ら(弟子たち)よりも抜けめがない」(16:8)のであるから、神の子はまことの富(天の宝)のために、不正の富をも用いて神にあって抜けめなく忠実に仕えよと語っているのである。  主イエスは、このたとえのしめくくりで、神にも仕え、また富にも仕えるということはできないと話された。神と富は対照的に述べられている。

パリサイ人たちの反応

 「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(ルカ 16:14)この教えを傍らで聞き、金を愛し、世俗的な職業家であったパリサイ人たちは、神に仕えるという形をとりながら実のところは「金の好きな」とあるように富の方に思い入れがあった。このイエスの教えが広まったなら自分たちの立場がなくなると思い、その場で、「イエスを罵倒し〈嘲笑し〈あざけり〉はじめた」(詳訳)のである。「なんというひどい教えか!」「無知もはなはだしい。」こういう感じだろうか。生きるためには、お金は必要であり、全く持たないわけにはいかない。主イエスが言われたのは、「弟子たちは、神に仕えるのだから富を排除し貧乏でありなさい。」と言われたわけではもちろんない。この世の富を用いて神の国を建て上げよ、ということである。これは、もちろん、カルト化教会のように、お金を信者からむしり取って教会や牧師の誉れのために使ってよいということではない。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と言われたように、友=困っている人が感謝できるような行為のために用いる、証文を書き換える=(借金を)赦し解放する、但し主人が困ることがない範囲で(これは、主人もあきれてほめていることからわかる)

 ユダヤ人には、富と善を結びつけて考える習慣があったという。富はよい人間のしるしであった。パリサイ人は善行を見せびらかし、物質的繁栄をその善行の報いと考えていた。彼らは、律法を自分たちに都合よく教え、離婚も公然と行っていた。分別があるようにふるまい、もっともらしく聖書を教えているパリサイ人たちは、律法を自分流に曲げてまでも律法にそった生活をしているように見せかけ、「ラビ(先生)」として人々から尊敬を受けていた。

 そのようなパリサイ人たちに向けて、「律法の一画が落ちるよりも天地の滅びるほうがやさしい」(16:17)と、律法が欠け落ちることはないことが強調された後、「金持ちとラザロのたとえ」で「モーセと預言者との教え(律法)に耳を傾ける」(16:31)重要性を告げられているのは、パリサイ人たちへの主の愛なのである。

落ち穂の会

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2015年7月22日 (水)

『キリストの花嫁 11』雅歌 8:5-14

 10回にわたって講解してきた雅歌であるが、とうとうというか、やっとというか、今回が、最後の項目となる。花嫁は、どうなるのか。壮大な小説を見ているようである。花嫁は、試練の苦しみを抜け、動かぬ平安をいただき、後に続いてくる者たちのために、「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)と言っていた。この4節の終わりには、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花婿と花嫁は、祈りの部屋へ行き、親密な交わりを持ち、時が経っていった。

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『愛する者に寄りかかって-すべてに高く-』雅歌 8:5-14(新改訳聖書使用)
花婿の権威を帯びた花嫁

 「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」(雅歌 8:5)これを花婿のことばとする人もいるが、訳によっては、男性が女性に語りかけているように訳されていたり(シリヤ語訳)、女性の語りかけのように訳されていたり(マソラ本文〔6世紀から10世紀に、伝統的な聖書本文を正確に残そうとマソラ学者によって印などをつけてまとめられた聖書〕)するようだ。雅歌は、誰が誰に言ったことばといった説明書きがあるわけではないので、誰が誰に言ったのかは、注意深く内容を照らしていかないと、わからなくなり、そのため、いろいろな見解が出てくる。3章6節では、婚礼の行列を見て、「荒野から上って来るあの美しい人はだれ。」と人々が賛嘆の声を上げているのを見てきた。ことばの意味を考えても、それと同じような周囲のことばである。ところで、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6,8:3)と花嫁は、二度、雅歌の中で言っていた。初めからずっと、変わっていない花嫁の花婿への願いであった。花嫁は、花婿の平安、安息の左の腕を枕にし、力強い右の手で抱かれ、守られることをずっと願っていた。今、花嫁は、ずっと願っていたように、寄りかかりながら、荒野から現われた(上ってきた)のである。寄りかかりながら、と言ったが、その寄りかかりは、「私は何もできないから、守ってね。」と相手に責任を置くような甘えからの依存ではなく、花婿の愛という支配の中、花婿と歩調を合わせながら、ともに同労者として歩んでいくというような、寄りかかりである。それでは、助け合いではないかとなるのだが、「助け合い」とならないで、「寄りかかり」となるのは、相手が完全である花婿だからである。花婿である主イエスは、完全なるお方である。人間は、一人一人、不完全であり、個人でする働きには、限界がある。その人の性質、特質、特長によってなすべき働きは、それぞれ異なる。異なるからこそ、同じ志を持つ者が、多く集まれば集まるほどに(一致が欠かせないが)、完全ではない相手の弱さをカバーし合え、完全な働きとなっていくのである。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ 12:4,5)ここで、花嫁は、完全である花婿に、寄りかかりながら、花嫁として、地上で自分のなすべき働きをしていくのである。厳しい試練の荒野から、花婿に寄りかかって、出てきた花嫁は、キリスト者として、みごとな成長を遂げていた。

花嫁の成長

 「私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」(雅歌 8:5)2章で、花嫁は、花婿を「林の木の中のりんごの木」(雅歌 2:3)にたとえた。赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木は、花婿の象徴であり、りんごの実(雅歌 2:3,5, 7:8)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような、主がそのご性質から私たちに与えてくださるものであった。2章3節で、「私はその(りんごの木)陰にすわりたいと切に望」んだ花嫁の願いが、いつの間にか、ここにきて、かなっている。というか、すわるどころか、すっかりくつろいで(安息して)、花婿が目をさまさせるまで、ぐっすり寝ていたわけである。りんごの木の下は、「あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」と、花婿は言っている。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ 8:26)産みの苦しみというべきとりなしをもって、絶えず働いておられる聖霊さまは、罪の世を歩んでいる私たちを救うために、また、救われた後も、主にふさわしいものとなるために、私たちに「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」といったりんごの実を与えてくださる母である。花嫁は、孤独だと思っていたわけだが、母が、花婿にふさわしい花嫁として整えるという目的をもって、りんごの木の下で、ずっと花嫁のために、産みの苦しみをしていたのである。花嫁は、孤独を感じていたときでも、ずっと、母の愛のとりなしの祈りの中にいたのである。

献身への思い

 「私を封印のようにあなたの心臓(ヘブル原語のleb〔心〕)の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。」(雅歌 8:6)と、りんごの実を十分に味わった花嫁は願う。古くから、石や金属などにさまざまな模様や像を刻み、印章にして、封印として使われていた。この封印はひもを通し、胸の辺りに掛かるように首からかけていたり、または、右の手に指輪にしてつけていたりした。封印は、所有を表わす鍵の役割を果たすものであった。今の割印をイメージしていただければ、わかりやすい。ここで見られるのは、花嫁の献身の願いである。成長した花嫁は、花婿の心の上にしっかりとつけられ、また、腕の上にしっかりとつけられ、歩むことを強く願っている。腕はヘブル原語では「腕,肩,力,腕力,(政治・軍事的)力」である。花婿の力を帯びて、出て行こうとする花嫁。

 「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」(雅歌 8:6)神であられる主は、ねたむほど強く愛されるお方であることが、聖書のあちらこちらで、描かれている。「主であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト 20:5)「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」(申命記 4:24)「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」(ヨエル 2:18)「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」(ゼカリヤ 1:14)などである。十字架の死という究極の愛、この死のように強い愛は、愛するものを奪う敵に対しては、よみ(抵抗し、拒むことのできない絶対的なもの)のように激しくねたむものでもある。それは、焼き尽くすすさまじい炎のように、激しいものである。不義に対しては、激しい炎をもって、対処する愛。この神の愛(アガペーの愛)を、花嫁は本当の意味で、理屈ではなく体験により、知ったのである。この愛があるなら、恐れるものなどない。この愛の中にとどまった花嫁は、この愛を受けたから、献身を表明したのである。

 続けて、花嫁が知った愛の力が述べられている。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌 8:7)すさまじい炎のような勢いをもった愛。大水も洪水も、その炎を消したり、流したりできない。カルメル山で、バアルの預言者たちと対決したエリヤがもたらした神の火に見られる愛である。リバイバルの炎である。神とバアル、どっちつかずによろめいていたなまぬるい民たちの前で、エリヤとバアル預言者は、それぞれ祭壇を築いた。火をもって答える神が、真の神であると。バアル預言者たちが、まず先に、バアルの名を呼んで、祭壇のあたりを躍り回った。朝から真昼まで呼んだり、踊ったりしていたが、何も起こらない。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」というエリヤに、自分たちの愚かさを悟ろうとも、間違いに気付こうともせず、バアル預言者たちは、さらに、大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけることをした。ささげ物をささげる時(夕のささげ物で、普通午後3時頃からささげられる)まで、騒ぎ立て、頑張っていたが、当然の結果ではあるが、無駄であった。次に、エリヤが、壊れていた主の祭壇を建て直し、祭壇の周りにみぞまで掘り、全焼のいけにえの一頭の雄牛とたきぎに、たっぷりと(三度とある、三は完全数)水を注ぎ、みぞを流れるほどに、水を満たした。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」と言うやいなや、天から主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った(Ⅰ列王記 18:18-39)。主の炎が、エリヤを通じて、リバイバルを起こしたのである。同じように、花婿の愛を流す管となった花嫁から注ぎ出される大水にも洪水にもびくともしないすさまじい炎のような愛は(花嫁自らの愛であったなら、大水どころか、小雨でも、しおしおになりやすい頼りない火であるかもしれないが、火の基は、花婿なのである)、リバイバルをもたらす愛となるのである。

 「もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(雅歌 8:7)かつては、花婿に寵愛されていても、母の子らに愛されたい、エルサレムの娘たちや夜回りたちや城壁を守る者たちに親切にされたい(愛されたい)と、孤独を感じていた花嫁であったが、今や、愛という性質を体験的に知った。愛は、得よう得よう、欲しい欲しいと、がむしゃらにそのための努力をすればするほどに、そして、たとえ、自分の財産をすっからかんになるまでに、ことごとく与えるほどにまで、頑張っても(そのような頑張りは、自我である、私たちのなすべき努力は、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ 1:5-7)である。)、ただのさげすみしか得られないものであるのだと。愛は、得ようと努力するものではなく、一方的に与えるものであり、花嫁が、花婿の大きな愛に気付き、以前よりも花婿を愛するようになったと同じように、花婿を模範として与え続けていれば、愛を持っているものならば、必ず、自分が花婿に応答したように、その愛に応答してくるものなのだと、知ったのである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花嫁が献身を表明して、更に時が経っていったようである。

私たちの妹へ

 「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。」(雅歌 8:8)時間が過ぎて、花婿と花嫁の働きによって、妹ができた。「私たちの妹」とあるが、花嫁の献身の結果、救われてくる人は、花婿と花嫁の妹である。救われたての若い妹。まだ愛(乳房で象徴)も知らないような幼い妹。彼女が、花嫁として召される日には、「彼女のために何をしてあげよう。」と配慮する花婿。「もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。」(雅歌 8:9)もし、彼女が、城壁のように妥協なく堂々と救いという土台の上に立つゆるぎない者であったなら、その上に、銀(贖い)の胸壁(ヘブル原語の「野営,駐屯,石壁,宮殿,石段,狭間胸壁」)を建てようと、贖いというゆるぎない敵からの守りを置くことを約束する花婿。「もし、城壁だったら、」という条件があることに注意したい。救われた後、ぐらぐら歩んでも敵からの守りはOKとは言っていない。「彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。」(雅歌 8:9)もし、妹が、戸(ヘブル原語の「戸,戸口,門」)のように、出入りの多い門のように、スカスカ何でも通すような者であったなら、杉の板で囲もう(ヘブル原語の「敵意を示す、包囲する、作る、制限する、抑制する」)と言う花婿。杉は、聖めの象徴である。杉の板は、聖めの板である。聖めという柵で包囲し、制限を設けようと言っている。

 「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。それで、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」(雅歌 8:10)花嫁のことばである。今の花嫁は、城壁のように、妥協なく堂々と立つゆるぎない者となっている。また、花嫁の内には、やぐらのように、高くそびえ立つ愛が形成されている。花婿による銀の胸壁と、杉の板によって、つまり、花婿の配慮ある愛の守りによって、花婿の目に、平安をもたらす者のような(花婿に喜ばれているような)、今の自分になったのだという証しのことばである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。妹ができて、また、時が経っていった。

すべての者の中で高く上げられた花嫁

 ここからの3節は、花婿でも花嫁でもない、第3者のことばのようである。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。」(雅歌 8:11)バアル・ハモンの位置は、不明とされている。バアル(ヘブル原語の「主、夫、所有者」)、ハモン(ヘブル原語の「群集、豊かさ、富」)で、バアル・ハモンは、「群集の主」という意味がある。ソロモン(花婿)には、「群集の主」という所にぶどう畑があった(大勢の信者があった)。「彼はぶどう畑を、守る者に任せ、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。」(雅歌 8:11)花婿は、その群れを、「守る者、管理する者」に任せ、その者たちは、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。「おのおのその収穫によって」とあるが、「銀千枚」と決められている。銀は聖書では、贖いの代価として支払うものである。千は、10(十全)×10×10(三次元すべて完全)で、また、千年王国の千年の統治に見られるように、平和の象徴である。完全な平和。花婿なる夫から、花嫁なる妻を預かった者が、花嫁なる妻を夫に返す時に、銀千枚支払った例が、創世記にある。アブラハムはその生涯で、サラを、二度、妹であると偽った。二度目、ゲラルでのこと、王アビメレクは、サラをアブラハムの妹だと思い、召し入れたわけだが、夢の中で、神にとどめられた。アビメレクは、サラをアブラハムに返したとき、アブラハムではなく、サラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」(創世記 20:16)銀千枚は、夫アブラハムからサラを預かった(実際は、だまされてであったが)アビメレクが、サラを夫のもとに返すときに、平和のうちに、サラを、すべてのものから守り、すべて、正しいとされるために、夫アブラハムに支払われたものであった。こう説明していても、ややこしいのだが、ぶどう畑を任せられた者(花婿から花嫁〔ここでいう花嫁は、今までずっと見てきた花嫁ではなく、後に続いてきた花嫁なる信者(妹)たちである〕なる信者を預けられた者)が、花婿に納める銀千枚は、預かっている花嫁なる信者のために支払われるものなのである。何のためにか。花嫁なる信者がすべてのものから守られ、すべて、正しいとされるために、である。完全な平和を保つためにである。自分のもとにいる花嫁なる信者は、自分のものではなく、花婿のものであることの表明でもある。花婿のものであることの自覚がないなら、花嫁はどのように扱われるかわからない。

 「私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。」(雅歌 8:12)ぶどう畑を任された者のことばである。花婿に、銀千枚は、先程と同じ花嫁なる信者のための代価である。「その実を守る者には銀二百枚。」実を守る者への報酬。この二百枚は、銀千枚と合わせて、千二百枚となる。十二は、統治に関する数。実を守る者へ、報酬として、御国の一部の統治が任されることの型であろうか。二はまた一致の数でもある。統治は、一致をもってなされなければならない。

 「庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。」(雅歌 8:13)12節の後半からは、ソロモン(花婿)に向かって呼びかけている。庭園の中に住んでいる仲間(ヘブル原語のchaber「〔1)団結した 2)共同者,友,礼拝者 3)仲間〕」)たちは、花婿のことばに耳を傾け、指示を待っている。指示を聞かせてくれるように言っている。

 雅歌の最後は、花嫁のことばで締めくくられる。「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 8:14)「私の愛する花婿よ、急いで来てください。ぶどう園の管理者たちが、あなたの声を聞きたいと、指示を待っていますよ、急いでください。よいかおりをただよわせている山々の上にいるさっそうと雄々しいかもしかや若い(雄)鹿のように速やかに駆けつけてください。」花嫁は、管理者や実を守る者など、ぶどう園で働く者たち、また、礼拝者など庭に住む仲間たちよりも、高い位置に上げられ、花婿といつもともにいて、その者たちの間に立って、とりなす者となっていた。

 後半部分は、とりわけ難解な箇所であった。しかし、こうして、後半4節(11節から14節)を見ていくと、天の様子がかいま見えるような箇所であった。雅歌に出てきた人物は、花婿に対して、花嫁、エルサレムの娘たち(おとめら)、花嫁と同じ母の子であるが花嫁ではない者、町を行き巡る夜回りたち、イスラエルの勇士たち、王妃たち、そばめたち、ぶどう畑を守る者たち、実を守る者たち、庭に住む仲間たちである。重複しているものがあるかもしれないが、すべての者が、花嫁ではないことが、雅歌で明らかにされている。たとえで、奥義が語られる理由は、「確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」ない人たちがいて、その人たちが、「悔い改めて赦されることのないため。」である(マルコ 4:12)と、主イエスは言われた。雅歌は、御名のために、迫害などの苦しい中におかれ続けているクリスチャンたちに、多くの慰めを与え続けている愛にあふれた書簡である。

落ち穂の会提供

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2015年7月 4日 (土)

『キリストの花嫁 10』雅歌 7:10-8:4

間が空いてしまったが、雅歌の続きを見る。前回までで、「花嫁のことばは、良いぶどう酒のようであり、花婿の愛に対して、なめらかに流れ、眠った者のくちびるをもその愛で満たす」と花婿が、語ったところまでを見た。花婿の愛によって、花婿だけをまっすぐに見るよう成長を遂げ、目覚めた花嫁。

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『ヘンナ樹の花の中で-動かぬ平安-』雅歌 7:10-8:4(新改訳聖書使用)

花婿からの賛辞への花嫁の応答

 花婿の自分へのあふれんばかりの愛を知り、花嫁は答える。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」(雅歌 7:10)もう以前のように、壁を作ったり、自分の殻にこもったりして、花婿を拒否したりはしない。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:17-19)この広く、長く、高く、深い人知を越えた花婿の愛を、花嫁は知ったのである。知ったからこそ、花嫁は、心の底から、自分のすべてをゆだねたいと思い、このように言えたのである。「私は、私の愛する方のもの。」と。2章16節では、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」6章3節では、順序が変わって、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」と、自我が砕かれ、成長していた花嫁、今度は、「私の愛する方は私のもの」がなくなっている。3段階の成長が見られる。花嫁は、「私の愛する方は私のもの」という自我の主張をしなくてもよいほどに「あの方は私を恋い慕う。」と、花婿に愛されていることを、知ったのである。

動かぬ平安

 かつては、「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:10)、また、「わが愛する者よ。戸をあけておくれ。」(雅歌 5:2)という花婿からのことばに答えなかった花嫁であったが、花婿の人知を越えた愛を知った花嫁は、今度は、自分のほうから花婿に、誘いかける。「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。」(雅歌 7:11)花嫁の心には、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)というみこころに積極的に従う準備ができたのである。「野」ヘブル原語では土地,畑,野。「野に出て行って、・・・」は、“Let us go・・・”<英欽定訳(New King James Version Bible)>である。花嫁は、「私たちは、世の中に出て行って、「ヘンナ樹」(平安)の花が咲誇る中で、「夜」(暗闇)を過ごしましょう。」と言っている。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇 23:4)に見られる平安である。どのような中にあっても動かない平安は、成長した花嫁なる信仰者のもつしるしである。使徒の働き6,7章の殉教者ステパノは、自分を殺そうとする多くの敵たちの前でも、「彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(使徒 6:15)と、動かない平安の中にいた。また、ペテロが、妻たちに勧めているのは、サラのような平安であった。「あなたがたの飾りは、〔念入りに〕髪を編み<結び>、宝石類を身につけ、着物を取り替えるなどという、〔単なる〕外面の飾りでなく、穏やかで平和に満ちた霊という朽ちることのない<色あせることのない>魅力を持つ、内的な飾り<心の〔奥深く〕隠れた人の持つ美しさ>でなければなりません。これは〔その霊は〕<不安を感じたり、興奮していらいらしたりすることのない霊で>神のみ前にきわめて価値の高いものです。」(Ⅰペテロ 3:3,4<詳訳>)

 ある時、教会で祈っていた時、神の御前に、悲しみを注ぎだした後、目の前が黄色に染まった幻を見た。ぼんやりした黄色の中にいて、それが花畑かどこかの中かわからなかったのだが、なんともいえない平安が注ぎ込まれた。「ああ、平安~。」という感じでひたっていたのだが、何のことか、何で黄色なのか、ずっと不思議であった。この11節のみことばを見たとき、ああ、このことだと、直感したので、ヘンナ樹の花を調べてみた。白色の小花が房状になっている潅木ということで、見たものは、この花ではなかった。ヘンナの葉は、黄色、黄褐色、黄土色の染料、顔料に使われる。日本でも、ヘナというトリートメント入り髪染めでおなじみである。このヘンナの染料である赤みがかった黄色、平安の色で染めてくださった現われであった。何かあっても、この時の平安を思い起こすなら、平安に包まれるのである。

 「一緒に、世の中に出て行って、平安の中で、暗闇の中を過ごしましょう」と申し出る花嫁。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿とともに、平安の中で、野で夜を過ごし、時が経っていった。

愛から出た奉仕

 「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。」(雅歌 7:12)苦とも思わず、喜んで、花婿と一緒に世に出て行こうとする花嫁の姿。花嫁にとって、福音の働きは、労働ではなく、愛の自然の行為であることが、わかる。ここに、労働をうかがわせることばは、使われていない。いやいや先延ばしに、日も高くなってからとか、日が傾きかけてから、重い腰を上げて行くのではなく、朝早くから、ともに、出て行くことを待ちわびているのである。花嫁は、おいしいぶどうの実の収穫が予測されるぶどう畑に行き、何をしようとしているのか。3つのことが書かれている。

 ①ぶどうの木が芽を出したかどうかを見て、愛を花婿にささげる 「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ 15:4,5)と言われているこのぶどうの木から出た芽、芽吹いたばかりの、信じたばかりの信仰の赤ちゃんが生まれたかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 ②花がさいたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ぶどうの花は、褐色の小さな米粒くらいのものが、房状に密生する。目立たないが花が一面に咲いているときには、「ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。」(雅歌 2:13)とあるように、ほのかな香りがするそうだ。決してきれいとは言えない花であるが、おいしい実をつけるのには欠かせない地味で目立たない花、目立たないが、ほのかにイエスのかおりを放っている若い信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。

 ③ざくろの花が咲いたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ざくろ(愛)の花は、赤く鮮やかな花である。多くの愛の実をつけるための花、成長している信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」とあるが、そのようなお世話は、花嫁の花婿への愛のあかしなのである。

抑えられないほどの花嫁の花婿への愛

 「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」(雅歌 7:13)「恋なすび」というのは、ナス科の春に梅の実くらいの実をつける植物である。青いときには、毒性が強くて食べられないが、黄色く熟すと良い香りを放ち、おいしくなるそうだ。が、麻酔性と下す作用があるという。麻酔作用と、根を抜いた時に、人間の股のような形のあるところから、地中海沿岸の国々では、催淫作用のあるあやしげな植物としていろいろいわれてきたようで、最近まで、催淫作用が信じられていた。ギリシアでは、根をぶどう酒につけたものは、恋を誘発する効き目があると思われ、ラブ・アップルと呼ばれ、不妊の女性に子供が授かるとさえ信じていた。(新聖書植物図鑑<教文館>参照)

 「恋なすびは、かおりを放ち、」恋なすびは、熟れてよいかおりを放っている。花婿への新たな愛が起こされた。「私たちの門(ヘブル原語では戸,門,入口)のそばには」それは、奥にきて、やっと起こった愛ではなく、花婿との関係の入口からあった愛であった。花婿と花嫁の関係は、愛から始まったものであった。今、新たな愛が起こされ、というか、妨げとなるような甘えのような不必要な思いは除かれ、愛が深められ、古くからはぐくんできた愛とともに、すべて、最上の愛をたくわえてきた花嫁。花嫁の愛は、不完全ながらも、その時々で、精一杯の最上のものであった。花嫁の花婿への愛は、なくならず、増える一方である。

 「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに」(雅歌 8:1)花嫁の自制の様子が見てとれる。自制は御霊の実の一つである。花婿に愛されているということで、周りの人々から、一方的で理不尽な怒りをかい(雅歌2:6)、そのために苦しみを通った花嫁は、愛の表現を自制することを学んだ。花嫁としての地位と愛の表わし方によっては、周囲から、さげすみやねたみをかいかねない。信仰を守る過程で、人々からさげすみやねたみを受けることが必要なときもあるが、受けることに甘んじなければいけないときというのは、そのことによって、神が栄光を受けられるときである。不必要なさげすみは、人々をつまずかせないためにも、避けなければならない。「ああ、」とため息まじりに、花嫁は言う。外で(働きの最中)、花婿を見出したときに、とびついて口づけしたくなるほどの愛を表わしたい衝動にとらわれても、やみくもに実行してしまえば、周りにいる人々をしらけさせ、さげすまれるだけである。自分にゆだねられた働きも進まなくなってしまう。実際に、そうしたことによって、花嫁は、打たれ、傷つけられ、かぶり物をはぎ取られた経験をしているのである(雅歌 5:7)。そのような経験を経て、自制する知恵がついた。しかし、「もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら」同じ聖霊なる母をもつ信者である兄弟姉妹に対してであったなら、いくら、外で、兄弟愛を表わしても、さげすみは受けないで、かえって、感謝されたり、ほめられたりするであろう。

 抑えきれないほどの愛で、花嫁は言う。「私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。」(雅歌 8:2)花婿を「私を育てた私の母の家」聖霊の住まいである花嫁の祈りの個室に連れていき、香料を混ぜたぶどう酒とざくろの果汁を花婿にふるまいたいと願う花嫁。「香料(単数)を混ぜたぶどう酒」「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(Ⅱコリント 2:15-17)花嫁の持つ「いのちから出ていのちに至らせるかぐわしいキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる交わり。花嫁の持つかおりは、調和のとれない混ぜ物ではないため、ぶどう酒と調和がとれていて、花婿を喜ばせる、おいしいカクテルとなっているのである。「ざくろの果汁」御霊の実の中でも最上のもの、愛。その愛から取れる果汁、搾り取る汁とは、とりなしのことである。誰にも邪魔されず、花婿への愛を思う存分に表現できる祈りの部屋で、花嫁は、花嫁の持つ「いのちに至らせるキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる親密な交わりをし、花嫁の愛から取れた果汁であるとりなしの祈りをささげたいのである。

 「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 8:3)2章6節でも言われたこのことば。その時、「左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)などのみことばから、右の手は、力、救いとして表わされている。」と述べた。傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られたいという願いをもって、語ったことばであった。今度は、全く同じことばであり、愛を求めることばでもあるが、前回と異なり、花嫁は、平安の中で、願っている。平安の中での、満ち足りた安らかな愛の表現としての願いである。

後に続く者たちのために

 2章7節や3章5節に続き、3度目の花嫁のことば。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)前々回や前回と異なり、「かもしかや野の雌鹿をさして」ということばが、なくなっている。2章7節では、傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、花婿からの愛の表現を願った後、言ったことばであった。3章5節では、一度、花婿を拒絶して、去られ、捜しまわって、見つけ出した後、言ったことばであった。「かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。」と、神に誓ってというふうに力を込めていた花嫁は、その後、再び、花婿を拒絶し、捜しまわり、夜回りたちに打ちたたかれ、「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌5:8)と弱々しく懇願していた。そのような経験をして後、花婿の変わらぬ深い愛を確認した後のことばである。「かもしかや野の雌鹿をさして」とわざわざ力を入れて言わなくても、花婿が与えた聞き従わせる権威を身にまとっている花嫁からのお願いなのである。今回の「あなたがたに誓っていただきます。」は、力をこめたわけではなく、権威からのことばである。ヘンナ樹、平安の中にいてゆるがされることのない花嫁は、自分のためにではなく、後に続く私たちのような者たちのために、誓わせているのである。

 雅歌に3度言われている「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」愛を揺り起こしたり、かき立てたりしようとする言動は、苦しみ弱っている信仰者を、よけいに苦しめ弱らせることになるのだと、知ってほしい。では、「愛を揺り起こし、かき立てる」という言動とは、具体的にどういうことか、ということになるが、「夢が破れても(生ける水の川発行)」に、そのことについてのわかりやすい例があった。要約してみる。

 「愛する人を失い、大きな痛手を負った男性がいて、とても無気力になり、『私は、頑張るのがいやになりました。』と言った。彼の友人たちは心配して、支えになればと、いろいろ努力した。悲しみの処理のし方の本を送った人、愛を伝える手紙を送った人、自分たちが主から励まされたという聖句を添えた人、一緒に祈ったり、ゴルフに行った人・・・。彼ら友人たちが、短い挨拶の後、きまって尋ねることは、『このごろどうですか。』ということであった。何度も繰り返される度に、どんどん嫌な気分は強くなっていった。彼には、友人たちが聞きたがっている答えがわかっていたからである。『大変だが、大丈夫。何とかうまくいっています。』これは、癒されていない彼の真意ではなく、友人たちを安心させるための答えであった。とうとう最後に、彼は、こう答えた。『ええ、まだ本当に大変です。彼女がいなくて、とても寂しいです。どうしたらいいのか、時々、悩みます。でも、もうそんなに落ち込まずに、社交的になって、しなければいけないことを始めるつもりです。いい方向に向かっていると思ってください。心配してくれて、ありがとう。』この最後のことばは、効果があり、友人たちは、ホッとして笑いながら言った。『それを聞いて本当にうれしいよ。ま、皆で祈ってきたんだから驚かないけどね。』この会話から3つのことに気が付いた。

 ①彼の友人たちは、自分たちの祈りが、彼が神のみこころを歩み続けることを願うよりも、誰かを元気にすることと関わっていると思い込んでいた。

 ②その思い込みには、『もし聖霊さまが彼に働かれたなら、苦しみから抜け、本当に元気になるはずだ』という考え方と、『神の道を歩むことと、すばらしい気分ですごすことは、同義語である』という考え方が含まれている。

 ③彼の友人たちは、悲しんでいる人の魂から距離を置いていた。意図的にそうした訳ではないが、苦しんでいる人とは一緒にいたくないということを暗黙のうちに相手に知らせている。事態を改善した人とだけ一緒にいたいのである。 彼は、友人たちに、励まされるどころか、さらなる絶望と深いわびしさの中に追いやられ、激しい孤独の中へと押し流されていくのを感じた。『私は、もう頑張るのがいやになりました。つい昨日、友人二人が私のことを話しているのを聞いた。一人が、彼はどうしているだろう、と言うと、もう一人が、頑張っているよ、と答えていたので、私は悲鳴を上げたい気持ちになった。』私たちは、人生で、ひどい打撃を受けたとき、誰かに、ありのままの自分を受け入れ、立ち直るまで、ただそばにいてほしいと願う。しかし、その人が求めている理想の姿を演じてまで、一緒にいてほしいとは思わない。良い気分にしてほしい訳でもない。自然の愛からではなく、そのような努力をされると、悩みを深めるプレッシャーとなってしまうのである。ただ、単に愛からお互いに仕え合うことが、どうしてそんなに難しいのだろうか。」

 苦しみの中にある人に、「早く苦しみから抜けろ」と、「苦しみに浸っていないで、イエスの愛を見よ」と、「イエスを愛せ」と、そのような思いから、あれこれ余計なお世話をすることも同様である。自分にもされた経験、した経験が思い浮かぶような、身につまされる話である。祈ってあげることも含まれる(わからないところでその人のために祈ることとは異なる)。苦しんでいる人は、間違っているところは、愛によって助言を与えてほしいと思うが、苦しいという思いについては、苦しんでいる自分のまま、ただ、つらかったねと、抱きしめ、つらい思いを理解し、共感してほしいだけなのである。その人のために祈ることも、みことばの助言をすることも、「元気?」と尋ねることも、一緒にゴルフに行くことも、してはいけないわけではなく、その心が大切なのである。本当に、相手の祝福を求める真実の愛からの行為であるなら、何をしても、相手を突き落とすようなことにはならないのである。愛から、愛からといっても完璧な愛など、神以外だれも持ち合わせていない。自分の持っている以上の愛が必要な事柄なら、直接には、何もせず、何も言わず、ただ、わからないところで、祈っているだけのほうが、賢明である。祈っているうちに、神が、なすべき愛を与えてくださる。愛の押し売りは、避けねばならない。花嫁は、そのことをよく、知っていたから、こう言ったのである。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。

落ち穂の会提供

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