<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/">

<channel rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/">
<title>落ち穂の糧</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/</link>
<description>ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。(聖書)</description>
<dc:language>ja-JP</dc:language>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:date>2012-03-14T20:45:53+09:00</dc:date>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://www.typepad.com/" />


<items>
<rdf:Seq><rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-84da.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-42b0.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2cc7.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-b1c8.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4577.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-c5b8.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-c4e6.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-43e8.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-72dc.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-09a3.html" />
</rdf:Seq>
</items>

</channel>

<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-84da.html">
<title>耐える力の源</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-84da.html</link>
<description>「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」（ヨハネ 16:13）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;イエスは、自分が去った後、イエスの名によって遣わされる助け主なる聖霊について、弟子たちに教えられた。また、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」と、主を信じる道がたやすい道ではないことを教えられた。主の道が、歩きやすく、きらびやかな道だと思っていると、困難がやってきた時に、投げ出してしまうであろう。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」と、主は配慮をもって、言って行かれた。もっともっと教えたかっただろうが、話を聞くための耐える力がないと言われた。聞く力がないのならば、実際に起こった時は、もっと耐えられない。しかし、真理の御霊が来ると、すべての真理に導き入れると、助け主なる聖霊を送って下さることを約束された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;人間は、見たことがないものや経験したことがないものについて、ぼんやりとしか知ることはできない。神についても同じである。いつも間にか、全然違った神を自分の頭で作り出してしまう。私たちが、神を知るには、神の側からの啓示がないと、できない。そのような人間、神は、ご自身を現そうと尽くされる。日々、聖霊が助けて下さることは、なんという恵みであり、力であろうか。聖霊が与えて下さる力は、がまん大会のようながまんの力ではない。主にある喜びが伴うものである。日々、聖霊の力をいただいて、歩んで行こう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ヨハネの福音書</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-03-14T20:45:53+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-42b0.html">
<title>主の道を伝えることとは</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-42b0.html</link>
<description>「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」（ヨハネ 13:35）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;イエスは私たちに、新しい戒を与えられた。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。しかし、これは、新しいものではなく、初めから神が意図されていたことであった。モーセによって与えられた律法は、「○○しなさい。」「××してはならない。」という命令調になってはいるが、これはすべて愛に基づくものであった。聖書に矛盾に聞こえるようなことが書かれてあるのは、そのためである。神を愛し、人を愛する愛によって、守っていくものであった。伝道することは、主の命令であるが、愛に基づかなければ、むなしく終わる。その伝道で一人の人が救われたとして、愛のない言動によって、多くの人をつまずかせるならば、どうなるだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;主を信じる者の互いの間に愛があるならば、それによって、すべての人が主なるキリストを認め、多くを語らなくても、その神の存在を知りたいと思うことだろう。キリスト者の間に真実の愛の一致がありますように。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ヨハネの福音書</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-03-13T20:01:11+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2cc7.html">
<title>たとえ何もなくても養って下さるお方</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2cc7.html</link>
<description>「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分で...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;&lt;strong&gt;「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」（ヨハネ 6:6）&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;十二弟子が村々に宣教し病人を癒す働きをした報告を受けたイエスは、十二弟子を連れて、ガリラヤ湖の向こう岸のベツサイダという寂しく小さな町に、ひそかに退かれた。ところが、イエスが多くの病人を癒す奇蹟を見た多くの群衆が、彼らの出て行くのを見て、方々の町々から徒歩で駆けつけ、イエスご一行よりも先についた。舟から上がられたイエスは、群衆を見て、深くあわれみ、いろいろ教えを説かれた。群衆の数は男だけでも五千人だった。この群衆を見て、イエスはピリポに、こう言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」これは、ピリポをためそうとして言われたのであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;イエスは、何をピリポに期待されてためされたのだろうか。弟子たちは、カナの婚礼で水がぶどう酒に変わる奇蹟を見ていた。パンの買える店を探してほしかったわけではない。「神にとって不可能なことは一つもありません。」と天使に言われ、「おことば通りになるように。」と言ったマリヤの信仰のように、主に期待し、「主よ、あなたに不可能はありません。荒野で民がやしなわれたように、神は、何もないところからでも、私たちを養うことがおできになります。」という信仰を期待されたのである。ピリポの答えは現実的であった。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」二百デナリとは、二百日分の賃金であり、少なく見積もっても百五十万円以上の金額である。そのような答えを受け、イエスは、５つのパンと２匹の魚で五千人以上を満腹させるという奇蹟を行われたのであった。主に不可能はない。どのような時でも主に期待して歩もう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ヨハネの福音書</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-03-10T07:48:02+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-b1c8.html">
<title>祈りが聞かれる秘訣</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-b1c8.html</link>
<description>「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみここ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」（ヨハネ 9:31）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;聖書でいうところの罪人は、すべての人である。行為に移すかどうかは別として、罪の根となる思いに心当たりがないという人は、一人もいないだろう。そうしたら、すべての人が絶望的ではないか、と言いたくなるところである。しかし、神は、そのような私たちの罪を赦し、義と変えてくださる道を備えてくださっている。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」キリストを信じ、義とされた私たちが、神を敬い、みこころを歩むならば、祈りは聞かれるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;私たちを愛してくださっている神は、絶えず、私たちの願いを聞いてくださっている。ならば、なぜ、祈りが聞かれないのだろうか。神を敬っているか、みこころを行なっているか、祈りで心を探っていただこう。神を敬い、みこころを行って、それでもなお聞かれないなら、時が満ちていないのである。神は、私たちの成長を待たれる。神に委ねて、今日も歩んでいこう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ヨハネの福音書</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-03-09T07:17:35+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4577.html">
<title>神による絆</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4577.html</link>
<description>「イエスは言われた。『神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛す...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「イエスは言われた。『神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。」（ヨハネ 8:42）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;イエスは、イエスの話を聞いて信じたユダヤ人に話された。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と。神が私たちの幸せのために与えて下さった律法を人間は、いつのまにか、「○○しなければならない。○○するべきだ。」という肉の規則にすり替えていた。しかも、いろいろな規則を追加して、それが神のみこころであるかのように教えていた。その教えは、人を束縛し、窮屈にし、喜びを奪い、神への認識をもすり替えていた。そのような教えの行く先は、結局、罪であり、自分の思いにしがみつく頑なさ（罪の奴隷）である。イエスは、「神から出たものは、わたしを愛するはずである。」と言われた。神から出た者は、イエスの語る神の愛、愛が具現化したイエスを愛するようになっているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;神の愛にとどまりつづけると、自然に、神を愛する者たちは、引き寄せられるように集められていく。その絆は、神の愛によるものであり、強く、誰も切ることができないものである。しかし、肉によって生まれた人間は、弱く、神の愛から目を離しがちである。その隙をつくかのように、関係が壊れ、崩すような事柄が起こっていく。イラっとしたとき、ムカっときた時は、イエスを思い出そう。ねたみ、そしり、あざけりを超え、神の愛にとどまり続けた主が、いつもともにいてくださることを。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ヨハネの福音書</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-03-08T07:13:02+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-c5b8.html">
<title>人の心は移ろいやすい</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-c5b8.html</link>
<description>「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべて...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」（ヨハネ 2:24,25）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;多くの人たちがイエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じたが、イエスはそのようなことで一喜一憂されなかった。すべての人の性質を知っておられたイエスは、人の評判や支持により立っておられなかったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;人間の態度と言うものは、その時々の状況や雰囲気で、変わりやすいものである。原罪を持つ人間が頼りにならないということを知っておられるゆえに、ご自分を任せることをなされなかったのである。「あの人がああしたから、私がこうなったのだ。」「他の人たちが助けてくれないから、できない」と人に自分を任せることをせず、神を見上げ、自分の足で、イエスさまについて行こう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ヨハネの福音書</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-01-12T06:42:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-c4e6.html">
<title>神への信頼</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-c4e6.html</link>
<description>「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのため...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」（Ⅱ列王記 23:26）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ヨシュアは、徹底的に偶像を破壊した。すたれていた過越しのいけにえをもささげた。しかし、主は、ユダにもたらしたマナセの偶像礼拝の悪を許されなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;罪を許すのは、神にとって簡単なことである。しかし、罪を許しはしても、人間は矯正されない。罪のもたらす結果を味わうことなしには、人間には罪を悔いることができなかっただろう。愛である神は、私たちにあえて試練を通される。試練によって、私たちは、多くのことを学ぶ。神は、神を愛する者たちに対し、不必要なことはなされない。どんな時にも、神を信頼し、神に感謝をささげよう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>列王記</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-01-11T22:54:54+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-43e8.html">
<title>罪に対する悲しみ</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-43e8.html</link>
<description>「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたし...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。――主の御告げです――」（Ⅱ列王記 22:19）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;宮の破損を修理しようとした時に、宮で見つかった律法の書。ヨシヤはそこに書かれたことに衝撃を受けた。律法に従わなかったために、自分たちに向かって燃え上がっている主の怒りを知り、女預言者フルダのもとにみこころを求めに、使者を遣わした。フルダは、主の怒りは消えることがないと語ると同時に、へりくだったヨシヤへ、主のあわれみのことばを取り次いだのであった。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;自分たちに語られる罪とさばきを真摯に受け止め、嘆き悲しむことは、罪の性質を持つ私たちにとって、たやすいことではない。信頼とへりくだりを要することだ。「みんなやっているじゃないか」とか、「これくらいいいじゃないか」とか、「そう言うお前だってあんなことをしたじゃないか。」とか言い訳するのが、肉にある私たちである。罪にマヒしないための予防法は、罪に対して嘆き悲しむ心を失わないことである。ヨシヤは罪に対し、「先代までの王がもたらしたものだ。」「父アモンや祖父のマナセが犯したことで、仕方がない」とは言わず、自らの罪として心を痛め嘆いたのであった。その心を主は喜んでくださった。罪に対する嘆きを忘れないようにしよう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>列王記</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2012-01-10T21:48:34+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-72dc.html">
<title>あっちもこっちも？</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-72dc.html</link>
<description>「彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。」（Ⅱ列王記 17：33）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;サマリヤがアッシリヤに取られ、イスラエル人はアッシリヤに捕え移された。それは、イスラエル人が主の道に歩まず、他の神々に仕えることをやめなかったからであった。アッシリヤの王は、イスラエルの人々の代わりに、周囲の国々から人々を連れてきて、サマリヤに住ませた。その民は主を恐れることを知らなかったため、獅子が送られ彼らを殺した。アッシリヤの王は、捕えていった祭司のひとりを連れてきて、ベテルに住まわせ、主の礼拝を教えさせた。しかし、サマリヤの人々は、めいめい自分たちの神々を安置し、祭儀を行った。これ以来ずっと、サマリヤの人々は、主を恐れ、同時に、刻んだ像にも仕えた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;神はただおひとりである。そうでなければ、もはや、完全なる神ではない。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」と主イエスは言われた。ただ、神だけを愛し、恐れていこう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>列王記</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2011-12-27T23:00:23+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-09a3.html">
<title>地面を打て</title>
<link>http://ochibo2.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-09a3.html</link>
<description>「神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうす...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。』」（Ⅱ列王記 13:19）&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;死の間際のエリシャのもとに、イスラエルの王ヨアシュが訪ねてきた。頼りのエリシャの死を前に、敵のアラムに対し、これからどうすればよいかと思ったのであった。エリシャは、王に、弓に手をかけさせ、アラムに面する東の窓を開けさせ、矢を射させ、「主の勝利の矢。あなたはアラムを打ち、これを立ち滅ぼす。」と告げ、矢を取って地面を打つように言った。ヨアシュは矢を取り、3回打ち、やめたのであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;----------------------&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: rgb(0, 0, 0);&quot;&gt;預言者であるエリシャは、矢は勝利の矢だと言ったのである。あなたは、これでアラムを打つと。ヨアシュが本当に、敵に勝ちたく、エリシャのことばを真剣にとらえたなら、ダン、ダン、ダン…と何度も激しく打ち付けたはずのところである。ヨアシュは言われたとおりに、矢で地面を打った。しかし、ヨアシュは、何も考えずにか、トン、トン、トンと三度でやめてしまったのであった。信仰の戦いには、従順だけではなく、熱意も必要である。従順だけであっても、そこそこの勝利はあるだろう。大勝利を願うなら、熱心に主を呼び求めることが必要である。主は、勝利を約束された。私たちは、熱心に地面を打ちたたき、そのことを求めようではないか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>列王記</dc:subject>

<dc:creator>一粒の麦</dc:creator>
<dc:date>2011-12-26T23:20:34+09:00</dc:date>
</item>


</rdf:RDF>

