2014年8月10日 (日)

『「健全な信仰」と「カルト化した信仰」』(ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社発行)

Kenzen律法主義と神の恵みとの戦いは、いつの時代にも起こっている。

「信仰」について、 わかりやすく書かれていて読みやすい本である。

「信仰」とは、「献身」とは、「みこころ」とは、「みことば」とは、「牧会」とは、の5つの項目に分けて説明されている。

「キリストが十字架上で人類の罪を贖ってくださったからです。人間の実績ではなく、キリストの十字架の功績です。ここに、人が神との交わりを回復し、また神との良い関係が保たれる唯一の根拠があります。ですから、健全な信仰を持つクリスチャンは次のように考えます。
『私が救われたのは、私が何かの善い行いをしたからではない。ただ、神の一方的な恵みにすがることによってのみ義と認められた。また、日々、神の祝福と守りの中で歩むことができるのも、私がクリスチャン生活の中で合格点を取っているからではなく、キリストを信じる信仰があるからだ。』」(17,18頁)

「サタンに対して無警戒になることは危険ですが、その一方で、サタンの存在を意識し過ぎて、必要以上に恐れることも大きな問題であり、サタンの思うつぼですなぜなら、サタンのことに神経が集中している間、神に心が向いていないからです。
聖書は、悪魔の働きが神の支配下にあることを明記しています。つまり、サタンは神の許可なしには、何もできません。確かに、神のご計画の中でクリスチャンがサタンに試みられることがあります。その場合、神の目的はクリスチャンの霊的成長であり、サタンの目的はクリスチャンを罪に陥れようと誘惑することですが、悪魔の餌食にならないための最善の対策は、神の恵みを求めることです。」(19頁)

「マインド・コントロールとは、ある人(あるいは組織)が別の人の精神を操作することを指しますが、コントロールする側の人間は自分の霊的・精神的・知的卓越性を主張したうえで(神の代弁者、神の油注がれた器)、絶対的服従を要求します。そこで、相手の主張を受け入れた場合、人はだんだんと相手に依存するようになり、さらに思考停止になり、ロボット的存在と化してしまいます。言うまでもなく、人がこのような状態に陥ることは、カルトの指導者にとっては好都合です。自分の野望達成のために、人をこき使うことができるからです。」(24頁)

「カルト化した宗教団体において、『自分を捨てる』とは、自分の思考力や判断力を捨てて無条件に指導者に服従すること、自分の夢や思いや主張や好みを押し殺して徹底的に指導者に仕えることを意味します。言うまでもなく、日ごろ、自分のことを無価値な人間だと思い込んでいる人にとっては、それはさほど難しいことではないでしょうが、神の喜ばれる健全な奉仕生活は、出発点が違います。『私は神から賜物を与えられている貴重な存在だ』という認識に立つのでなければ、奉仕は長続きしないのです。」(34頁)

また、心に浮かんだ思いがみこころかどうかチェックする助けとなる「みこころを確認するためのステップ」が6つ書かれていた。

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2014年4月 9日 (水)

「霊の戦い―虚構と真実」(ウィリアム・ウッド/パスカル・ズィーヴィー著 いのちのことば社発行)

Reitatakai 教えの行き過ぎを防ぎ、一致を保つために、必要な事柄が書かれていた。

「私たち人間は弱い者です。知らないうちに様々な偶像を作ってしまいます。神よりも富に頼ったり、神のみこころよりも名誉を求めたり、神よりもこの世を愛したりするようになってしまいます。偶像を持っていては、本当の幸せも得られないし、神のみこころを行うこともできません。そこで主は、私たちに試練を与え、軌道修正をさせてくださいます。苦しい時に、私たちは自分の人生の優先順位を考え直します。
『主よ、あなたこそ、私のすべてです。あなたのみこころこそ、私にとっては最善です』という信仰の基本に戻るのです。ここに神の目的があるわけですが、霊的戦いにこだわり過ぎると、主の計画を見失うばかりか、場合によってはその計画に反対することになります。
思うようにいかないことがあると、へりくだってそのことを主に委ねるのではなく、邪魔するサタンを縛る。このことにどんな目的があるのか、私の学ぶべきことは何かと考えるのではなく、『必ず私の信じたとおりになるはずだ』と宣言する。こうなると、私たちのクリスチャン生活の焦点がズレていると言わざるを得ません。一番大事なのは、私たちのプランの実現ではなく、みこころの実現です。そして、そのみこころの中で、特に神が望んでおられることは、私たちがいよいよイエスさまの御姿に似た者となることなのです。」(35頁)

ちょうど、ヨブのことを考えていた時に、下記の表記を読み、うなずきました。

「試練を通して清められたヨブは、ただ神を愛し、神に頼り、自分の身を神に委ねる者となりました。つまり、富や名誉に対する執着心、あるいは関心がなくなったのです。与えられれば感謝なことだし、与えられなくても感謝なことだ。このような信仰をもって、人生の新たなスタートを切ったわけですが、ここまで徹底的に神に扱われて、整えられた人は、どんなに富や地位が与えられても、大丈夫です。神から目を離す心配がないからです。一方、まだ富や名誉を愛したり、求めたりする思いが残っている人に対しては、主はヨブと同じような祝福を注ぐことはできません。危ないからです。その人のためにならないばかりか、悲劇を生み出してしまいます。
 結局、ヨブはサタンの訴えが嘘であったことを証明しました。御利益があるから、神に仕えていたのではありません。自分の創造者であるから、主権者であるから、良いお方であるから、そのみこころに従ったのです。サタンは、人がこのような信仰に至らないように働きます。そうです。これが最大の霊的戦いです。そして私たちはキリストの権威をもって、この戦いに臨み、サタンに立ち向かうのです。」(38頁)

行き過ぎて神から目を離してしまわないように、主イエスとともに歩んでいきましょう。

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2014年4月 4日 (金)

「教会がカルト化するとき」(ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社発行)

Cult

最近、カルトって、どういうものを言うのかという質問を受けます。
リバイバルを願うならば、この問題に向き合って、知恵をいただきつつ治めていく必要があると、ずっと思っています。
この本にわかりやすいチェックリストが掲載されていました。
自己吟味して、予防に役立ててください。

「カルト」と「カルト化」の違いと注意

「カルトとは、人間社会に破壊的な結果をもたらす集団のことを言います。ですから、あるグループがカルトであるかどうかを判断するときに、どれだけの具体的な被害が出ているかを見極めることがポイントです。はっきり『カルトだ』と判断できる教会は、ごくわずかだと思われます。しかし、『カルト化している』と言わざるを得ない教会の数は、はたしてどうでしょうか。『カルト化している』とは、すなわち、カルト的体質や特徴を持っているとか、カルトと同じような手法を用いているとか、カルト的傾向が見られる、という意味です。

一つの宗教団体がカルトなのかどうか、あるいは、カルト化しているかどうかの判断は、ちょうど医者が患者を診察して、病気の診断を下すときと同じくらい、複雑で、難しい作業です。さまざまな情報を総合的に見る必要があります。ですから、本来なら、それはカルト問題の専門家の手にゆだねられるべきことだと考えますが、読者の参考のために、幾つかの基本的なガイドラインを記しておきます。簡単な説明の後、さらに細かいチェックリストがあり、家庭医学書のような役割を果たすと思います。しかし、このチェックリストに基づいて、『私の教会はカルトだ』とか、『カルト化している』と自分で判断して、軽率に『カルト呼ばわり』をしないように、読者の方々にくれぐれもご注意をいただきたいと思います。必ず専門家に相談されるようにお願いいたします。」(68-69頁)

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2014年2月21日 (金)

「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)

Syuha

知りたかった答えがここに書かれていました。惑わしから守られるために、クリスチャン必読の本です。

全部を紹介したいくらいですが、ここでは、“落ち穂”が実を結ぶために、特に知っておく必要があることを抜粋しました。

【この本が書かれた経緯

「神が語られたのではない「ことば」によって人生をだめにされた人たちの話や、実際に自分が出会ったそういう人たちのことを思い起こしました。そしてついに、主が私を信頼して託されたこのメッセージを伝えないわけにはいかないと、私の心が定まりました。

本書には、実際に起こった出来事が含まれています。それは、実話を通して学ぶことで、本物と偽物とを見分ける目を養えると思ったからです。」(26頁)

【惑わしのタイプ】

【成功への願いの危険】

【真の預言者に訓練中はない】

【偽預言者が反抗心を助長する】

【イエスの権威に真っ向から逆らう善が存在する】

【反抗的な預言者?】

【今日にも適用されるイゼベルのはたらき】

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。…」ヨハネの黙示録 2:18-19

この教会には、クリスチャンとしての働きと愛に溢れていました。人々は積極的に奉仕をし、その忍耐と信仰は本物でした。…

ここで主はご自分を、燃える炎のような目を持った存在として描かれています。これは、どんなに暗闇やベールに包まれたものであっても、物事の本質を見抜くずば抜けた能力を表しています。…しかしイエスは、この教会が行っていたすばらしい働きを通り越して、その奥に存在する危険な問題点を指摘されたのです。主は次のように警告されました。

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。 ヨハネの黙示録 2:20

私はすぐに、イゼベルという名前に目を留めました。いつものように、列王記第一を開けて、イスラエルの王アハブの妻、女王イゼベルに関する記録を読み始めました。…しかし、その時私が聖書のページをめくっていると、御霊が、「ジョン。なぜ私がこの教会[テアテラにある教会について語ったメッセージを学ぶのに、女王イゼベルの記録を開けようとするのか]と語られるのが聞こえました。

そこで私は立ち止って、ふと考えました。「そうするべきだからではないか。また、みんながそうしているからではないか。この霊がどのように働くのかを学ぶ手段といえば、あの女王イゼベルについて学ぶことによるのではないか」と。

すると、主は再び、「ジョン。もしイエスの義理の父であるヨセフについて学びたかったら、創世記に記してあるヤコブの息子のヨセフについて学ぶか」と尋ねられました。

私は混乱して、ただ「いいえ」と答えました。

それから主は、次のように言われました。「創世記のヨセフと新約聖書のヨセフには、名前が同じで、同じユダヤ人であるという以外は、なんら共通点は存在しない。同様に、列王記の第一と第二に記されているイゼベルとヨハネの黙示録に記されているイゼベルは、何の関係もない。テアテラの教会にいるこの女の働きについて、あなたが知りたいと願っていることのすべては、ヨハネの黙示録の中に記されている。旧約聖書に出てくるもう一人のイゼベルは、この問題を不透明にし、混乱させるだけだ」と。」(174-176頁)

【サタンによる惑わしの深さ】

【自称預言者、それとも神に任命された預言者?】

【砕かれること―主の働きに就くために通らなければならない道】

【イゼベルの棘】

【講壇以外の場所ではたらくイゼベル】

【賜物と権威は別】

【神の権威の下から引き離される危険】

【羊の皮を着た狼】

【実は霊によって見分けられる】

【偽預言者の動機】

【実によって見分ける】

【偽預言者の標的】

「自分を孤立させると、大牧者なるイエスの導きも、イエスからの保護も受けられなくなります。キリストのからだという避難所にいなければ、簡単に敵の餌食になってしまうのです。パウロが熱心に、長老たちに対して、このことを警告したのを思い出してください。

私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。 使徒の働き 20:29-30

最も簡単に群れから孤立させることができるのは、弱く、若く、傷ついた者たちです。このような人たちが一番、偽りの預言に惑わされやすいのです。若い信者は、まだ未熟で神のみことばをよく知らないため、簡単に群れから引き離されるのです。…イエスはペテロに、主の小羊と羊の両方を養い、面倒を見、あるいは保護するようにと命ぜられました(ヨハネ 21:15-16)。これが、真の牧者としての責任です。…

弱い羊もまた、簡単に群れから引き離されてしまいます。なぜなら、義の教えにまだ通じていないからです(ヘブル 5:13)。…

しかし、偽預言者が第一のターゲットとして狙っているのは、心に傷のある者、あるいは人につまずいた者たちなのです。彼らにとっては、そういう人たちこそ最も貴重な獲物なのです。なぜなら、人につまずいた者たちは、自らを孤立させるからです。…同様に、人につまずいた人たちも、自分の周りに城壁をめぐらせて、自分を守ろうとするのです。そういう人たちは、何千人という大きな教会の中に座っていても、孤独なのです。また、大家族の一員であっても、心は遊離しているのです。自分自身を守るためにグループから離れるのですが、そうすることにより、偽預言者の惑わしに陥りやすくなるということなど、思いも及ばないのです。」(239-241頁)

【主の御名の利用は神が最も忌み嫌われる】

【あからさまにだまされたりはしない】

【真理を愛する】

【平安が判断の基準】

【偽りの預言をどう処理するべきか】

【ことばの背後にある力を打ち破る】

【警告の必要】

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2014年2月12日 (水)

映画「シークレット・サンシャイン」

Secret
何年か前に、新聞の書評で紹介されていた映画。
被害者の心を置き去りに、宗教的にみことばを使う危険を伝えていた。

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夫を亡くしたばかりの夫人シネが、小さな一人息子を殺されてしまう。
死亡届を出しに行ったシネは、苦しみに耐えきれなくなって、役場を後にする。
そこへ、キリスト教会の賛美の歌が聞こえてきた。
聖霊に満ちた賛美に導かれ、教会に入ったシネは賛美と牧師の祈りの中、慟哭した。
神に触れられ、平安に満ちた顔のシネ。
熱心に教会活動に打ち込んだ。
しかし、深い痛みは、宗教行為では消えるものではなく、ふとしたことで、シネを襲う。
この苦しみから解放されたく、ある時、犯人に神の愛と赦しを伝えるために、刑務所に行くことを、宣言した。
牧師やメンバーから賞賛を受け、彼女は刑務所に出向いた。
犯人に面会し、「神の恵みと愛を伝えにきた」と告げたシネに、犯人は、「心から感謝します。私も入所してからキリストを信じました。すばらしいことに、神に罪を赦されました。平安の中、毎日、祈ってます。」と謝罪もなく、笑みを浮かべて語った。
犯人は、刑務所伝道でか、その他のことでか、(中途半端に?)神を信じていたのであった。(本当の回心は、被害を与えた人に謝罪の心が伴うものだ!)
シネの苦悩が再び始まった。
「神は、なぜ…? 私をも愛しているはずの神がなぜ…?自分が苦しんでいる間、犯人は許されたと言って平安に過ごしていた。」
神に訴えるかのように、荒れた生活をするシネ。
そのシネの傍に、いつもよりそい支えるジョンチャンの姿は、陽だまりのように支える愛が、いかに大切かを、語っていた。

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この映画のDVDを見て、被害者支援の必要を感じた。
すべてのクリスチャンが、人の心を知り、宗教的(律法的)ではなく、キリストの愛によって、みことばを語ることを願わずにはいられない。

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「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ 12:15)

 

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2014年1月15日 (水)

「『信仰』という名の虐待」(マインド・コントロール研究書編 いのちのことば社発行)

Sinkou
「落ち穂の会」は、17年前に主に語りかけられた「羊を奪うものの手から羊を守る」という理念に立っていますが、12年前に読んだ下記の詩は、被害者の心をよく表し、心を打ちます。

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小さな羊

羊たちをかばうようにして、緑の丘にたたずむ羊飼いがいる。
その丘から彼の叫ぶ声がこだまする。
「だれがわたしのために行くだろうか。」
「ここに一匹の羊、私がいます。私を遣わしてください。」
どこに、そしてなぜ行くのかわからずに、ただその“小さな羊”は死の谷へと向かった。

死の谷には、あの羊飼いの鳴き声が響き渡る。
彼の涙の滴が“小さな羊”のほほを流れる。
その谷にはたくさんの羊たちの行進が続く。
行く先が死の底だと知りもせずに……
自信たっぷりに、さも満たされているかのように。
しかし、そこには羊飼いなるお方はいない。

谷底で主の栄光を探し求めた。谷底で恵みを与えてくださいと叫んだ。
でもそこで得たものは、数え切れないほどの涙の粒、したたる血、
ムチで打たれた傷と、踏みつけられた痛みのみ……
そこでの掛け声は“もっと早く、もっと熱心に、もっと一生懸命に”
“小さな羊”も声にせきたてられ走り始める。もっと早く、もっと熱心に……
そしてそこで出会ったのは、“立派な指導者”といわれる大きな羊。
鼻高々に“小さな羊”を呼ぶ。「わたしに従いなさい」と。
蹴られ、踏み付けられ
「従順」という言葉のみが谷底では拍手を受ける。

“小さな羊”はその真っ直中でひたすら走る。
疲れ果てた“小さな羊”がやっとの思いで目を上げる。
緑の丘にたたずむ羊飼いの姿がはるか彼方に見える。
さみしそうに、死の谷を見下ろしている。
静かにこだまする羊飼いの声。
「もどっておいで。わたしのもとへもどっておいで。
わたしは良い羊飼い。わたしのもとで休みなさい。」
でも、谷底の羊たちは耳を傾けることなく
ひたすら走る。もっと早く、もっと熱心に。

ついに、“小さな羊”は立ち止まった。流れに反して、そこに立ち止まった。
何十頭もの羊たちに踏み付けられ、蹴飛ばされ……
大きな羊がさらに声をはり上げて叫ぶ。
「信仰!信仰!信仰!もっと早く、もっと熱心に!
我々は緑の牧場をつくりあげるのだから!」
“小さな羊”は血まみれになって、あの緑の丘を見上げる。
「私の助けはどこからくるのだろうか……」
あの丘の上にたたずんでいたはずのあの羊飼いが、
谷底で倒れている血だらけの“小さな羊”のすぐそばにいた。
両手を広げて静かに抱き上げる。

他の羊たちは振り向きもせず走り続ける。
ため息ひとつつく暇もなく、少しの疑いを持つことも許されず……
大きな羊は両手をあげて、かれらをせきたてる。

羊飼いのもとで“小さな羊”は涙する。
羊飼いは彼の血でそまった傷口をそっと拭いながら、やさしく語る。
“わたしの愛する羊よ。よく耐えた。わたしのもとで休みなさい”と。
そして新しい毛皮を着せてくださる。
“小さな羊”は魂の底から叫ぶ。
「主は私の羊飼い。私には乏しいことはない」……
聖なる、聖なる、聖なるかな。万軍の主。全地は主の栄光で満ちる。
(p86-p90)

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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)

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2013年10月27日 (日)

弱さは思いやりに。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(へブル5:2)

小さい時に親から離され育った人が、ある日イエスの愛を知り、神を信じた。
育つ過程で、危険な道はなるべく避け、自分で自分を守り、危険を感じ取ると逃げることが身についていた。
主を信じ、語られた道を歩んでいても、行き詰まると、間違いであったかと思えてきて、逃げることがしばしであった。
そうしているうちに、主の愛が見えなくなってしまった。
ある日、主に向かって静まっていると、ふと主の臨在が伝わってきて、そのまま丸ごと委ねて歩めばよいということが理解でき、計り知れない主の愛に立ち返ったのであった。
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主がいつも私の手を取ってくださっていた。私の弱さがそのことを信じきれずに、完全なみこころから外れる道を選んでしまっていた。
私が救われる以前から持っていた問題、自分ではどうしようもなく、逃げ出すしか逃れる道はなかった問題、私の基本的な人格を形成した中での弱さを、主はご存知であった。
主は限界まで耐えてもどうしようもなくなったとき、逃げるという私が持っていた防御規制を知っておられ、長年かけて取り扱って下さった。ハレルヤ!
その防御規制は私が親との関わりの中で、身につけていたもの。
その中で受けた不必要な部分を手放せるように、長年かけて、私を扱い、作り変えて下さった。
主のことばでみこころを聞いた時に、妨げとなっていたものを無理に取るのではなく、手放せるまで、私を扱い、無理にではなく、自然に手放せるまで導いて下さった。
なんという愛だろうか。
主がともにいてくださるから、主に委ね、明日も安らかでいられる!

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2013年10月23日 (水)

何とかして幾人でも

「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント 1:22)

パウロの救霊は、自分を捨てて、すべての人に応対できるよう、へりくだりの中でなされた。
しかし、福音を語る姿勢は、きっぱりとしたもので、混ぜ物はなく明確に伝えたのである。
それは、神であられるのに、人の姿をとって、私たち罪人のところに来て下さったキリストに通じるものであり、神の心から出たものであった。
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愛の現れ方は個人個人、異なっている。
優しく柔和に接することは詐欺師にもできるものだ。
しかし、主の愛はそのようなものではなく、不動のものである。
ダメなことはダメとはっきりいうことだ。
コントロールすることなく相手の意思を尊重し、待つことができるものだ。
神の名を利用して、人を自分につけようと根回しすれば、その人をわたしに誘導することはたやすいことである。
その救われた人たちが本当に神であるわたしを必要としているならば、わたしがその人を導く。
導くのは、神であるわたしがする。心配はいらない。
人が自我で救霊の働きをしていたとしても、それを用いてもわたしは救いに導きたい。
だから、救霊の働きをしている者が、たとえ自我の矯正を拒んでいたとしてもそのままにしているのだ。
そうしても、何とかして幾人かでも救いたいのだ。
矯正を拒んでいた者がわたしにとどまり続けるなら、いずれ、必ず自我を手放す時が来る。
あなたがたは、そのことにつまずくのではなく、救われた人たちが、つまずきを覚えた時に、正しく導けるよう適度な正しい距離を保ちつつ関わっていなさい。

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2013年10月21日 (月)

主のみこころを知る

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイの福音書 6:7)

ある時、祈りについて、主が語られた。
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人が祈る時、あまりにも多くのことばを並べたて、それで満足してしまう。
わたしの言うことばを聞こうとしない。
自分の要求や自分の思いを告げて、わたしの語ろうとすることばを聞こうとしない。
主が交わりたいと願っていても、わたしの方を向かない。わたしはそれが悲しい。
心を閉ざさず、また、わたしがどんなにあなたに教えたいと願っているかを知って欲しい。

わたしが語ることばが聞こえないのは、雑念を捨てず、自分の考えを捨てないからです。
そのことがわかるだけでも祈りが違ってきます。
すべてを支配しているのは、主です。
祈る事柄も、主が導かれます。

否定的な思いは捨てなさい。今、捨てるのです。
それをしないと、あなたを用いたくとも用いることができません。

わたしがあなたをどんなに愛しているか、あなたは知らないでしょう。
あなたが想像できないほどに、あなたを愛しているのです。
信じて下さい。これを信じることができず、疑いに負けてしまわないようにして下さい。
人々がどのように誤解しても、あなたとともにわたしがいることを忘れないで下さい。
遠慮は何も生み出しません。悔しさと惨めな心が残ります。
したいことは、伝えなさい。したくないことも同じです。
ハイはハイ、いいえはいいえです。それ以上のことは悪いことです。
疑問を聞くのも、時によっては、必要なことです。

そうやって、互いに補い合って、キリストの律法を全うしなさい。
人は不完全です。人の助けも、交わりも必要です。
それがキリストの体の健康な状態です。

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2013年10月20日 (日)

思い煩いは主に!

「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(詩篇 94:19)

あるリーダーが、ある祈りの集会を導くことになった。
場所を用意し人々が祈るために集まった。
黙想する時間があるのだが、開いてみると、その場所は、大きな道路に面し、うるさ
いことを知った。
それでもと思って始めてみると、拡声器の声まで聞こえてきた。
失敗に終わるのではと思い、主に向かった。その時、主は語られた。
「あなたはなにを思い煩っているのか?
 どこにいてもどんな場所でもわたしはいる。
 心配せずに委ねなさい。この集まりの主はわたしである。
 否定的な思いを打ち砕く!!
 否定的なことばを語らないようにしなさい。
 この集まりを導いているのは、わたしである。あなたではない。
 わたしに任せて祈りなさい。人の評価が大事なのではない。
 大事なのは、人々がわたしを知ることである。
 わたしは欠けている人間を欠けたままで用いることができる主である。
 持っている問題が大きいほど、また、求めが強いほど、人は私を求める。
 その時、わたしは応えよう。」
このことばに安心感を得、その会は主の喜びが満ちていった。
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完全ではない欠けた私たちであるが、主はそのような私たちを用いて下さる。
自分の思いを捨てて、主を見あげた時に、主は働かれる。
その時、主の栄光が満ちる!!

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«自我を捨てよう。